臼さん5000文字

 その昔、まだ私が結婚して間もない頃、妻方の祖父母の家で初めて餅つきを体験した。私の実家では餅つきをする風習がなく、正月といえば既に出来上がった餅を買ってくるだけで、臼や杵に触れることなど一度もなかった。だからこそ、妻の祖父母の家で体験した餅つきは、私にとって最初であり、そして今思えば、それが“最後”の本格的な餅つきだった。

当時の記憶は、いまでも鮮やかだ。冬の朝の張りつめた空気。庭に置かれた臼の冷たさ。薪がはぜる音。餅米を蒸す湯気が白く立ちのぼり、あたり一帯に懐かしい香りを広げる。祖父母の家に親戚が集まって、皆がそれぞれの役割を楽しそうに果たしていた。私にとっては知らないことだらけの風景だったが、その賑やかさが、妙に温かく胸に残っている。

 祖父は寡黙な人だったが、その手元の所作には迷いがなく、長い年月をかけて培われた確かな技を感じた。臼の前に立つ祖父の背中は、普段よりも大きく、そして誇らしげに見えた。もち米を蒸し上げ、臼に移すと、いきなり杵でつき始めるのかと思っていた私をよそに、彼らはまず「捻り」の作業に入った。初心者の私はその存在すら知らなかったが、長老格の方々が、蒸したてのもち米を丁寧にこね、塊をほどき、均等に広げていく。これがなければ、どれだけ力強く杵を振り下ろしても、きれいな餅にはならないという。

 やがて十分に捻られ、もち米が“餅へ変わる準備が整った”と判断されると、祖父から杵を手渡された。正直、胸が高鳴ると同時に冷や汗が流れた。想像した以上に杵は重く、振り上げれば体がよろめきそうになった。狙いを定めて振り下ろすはずが、重さで腕がぶれて、臼の縁を叩きそうになったり、もち米の中心に届かなかったり。周りの人は「大丈夫大丈夫」と笑ってくれたが、私はただ必死だった。

 それでも数回、十数回と振り下ろしていく中で、少しずつ体がその重さに慣れていく感覚があった。臼の中で、もち米が形を変え、粘りを帯び、しだいに餅としての姿を現していく。その変化を自分の腕で感じることは、何とも言い難い喜びだった。つき終えた餅はつやつやと光り、柔らかく温かかった。皆でそれを丸め、きなこにまぶし、醤油をつけ、海苔で巻いて食べた時の味は、いまでも忘れられない。

 あの日の餅つきは、それきりになった。祖父が急に亡くなったからだ。家族が集まった通夜の席で、義母がぽつりと言った。「お父さんが使っていたあの臼と杵、引き継いでくれないか」と。突然の申し出に驚いたが、断る理由はなかった。むしろ、あの日に教えてもらった温かな経験を胸に、私は臼と杵を引き受けた。

 それから私が住むお寺に臼と杵を運び入れたが、引き継いだは良いものの、実際には使う機会はなかった。時代は変わり、行事ごとに人が集まること自体が難しくなっていった。そしてコロナ禍。つどいも行事も控えるなかで、臼と杵は物置の奥深くにしまわれたまま、長い年月が過ぎていった。

そして最近になって、ふと気になり、久しぶりに臼と杵の様子を確認してみた。すると、思っていた以上に風化が進んでいた。乾燥し、木肌はささくれ、ところどころ欠けている。祖父が大切に使い続けた道具が、ひっそりと静かに老いていた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。祖父の大切な思い出とともに受け継いだこの臼と杵を、このまま朽ちさせてしまっては、何かを裏切るような気がした。私は、臼の表面をそっと撫で、「ごめんな」とつぶやいた。もっと早く気にかけてあげればよかったのに、と。

 その日から、私は臼と杵の修復を始めた。といっても、素人の私にできることは限られている。まずは表面の汚れやカビを落とし、ささくれた部分を少しずつ削り、整えていく。削りすぎれば強度が落ち、けれど削らなければ餅に木屑が混じってしまう。その加減が難しく、私は何度も手を止めては、臼の表面をじっと見つめた。

 欠けている部分がいくつもあり、どう補修すべきか悩んだ。祖父ならどうしていただろうか、と考えながら、少しずつ、少しずつ削り進む。木の香りがふわりと立ちのぼり、まるで祖父がそばで見ているかのような気がした。

 修復作業をしながら、私はふと思った。臼も人も同じなのではないか、と。長い年月を生きれば、どこかが欠け、削れ、傷つく。傷つけば痛むし、欠ければそのままでは役に立たないこともある。それでも、丁寧に手入れをすれば、また新しい命が吹き込まれる。時間をかけて整えていけば、再び誰かの役に立つ日がやってくる。

 臼の表面の傷を見つめながら、私は自分自身の心にも同じような小さな傷や欠けがあることに気づく。日々の忙しさに追われて忘れてしまった大切な気持ち。後回しにしてきた思いやり。誰かにかけた言葉のとげ。そうしたものを丁寧に見つめ直し、少しずつ削り、整え、磨き直すこと。それもまた、生きる上で大切な“手入れ”なのだと、臼が教えてくれているようだった。

 コロナが明け、人々が再び集い始めた今、この臼と杵にも、もう一度役割を与えてあげたい。祖父が残してくれたように、家族や地域の人々が笑顔で集まり、子どもたちが杵の重さに驚き、大人たちが支えながら餅をつく。そんな風景が再び生まれたら、祖父もきっと喜んでくれるだろう。

 臼と杵の修復はまだ終わらない。どこまで削っていいのか悩みながら、私は今日もゆっくりと木肌を整える。時間はかかる。でも、そのゆっくりとした作業こそが、私自身の心を整える時間にもなっている。

 あの日、祖父の背中から教わったもの。餅つきの楽しさだけではなく、人が集まる喜び、手間を惜しまない大切さ、受け継ぐということの重み。それらが、今ようやく胸の奥で形になりつつある。

臼を撫でる私の手の先に、あの日の冬の朝の白い湯気が、今でも静かに漂っている気がする。

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