臼さん仏教

その昔、まだ私が若かった頃のことである。妻方の祖父母の家で、私は生まれて初めて餅つきを体験した。私の実家では餅つきをする習慣がなく、正月といえば切り餅を買ってくるばかりで、臼や杵に触れたこともなかった。だからこそ、あの日の光景は、今も胸の奥に特別なものとして残っている。初めての体験であり、そして今振り返れば、あれが“最後”の本格的な餅つきの時間だった。

 寒さの厳しい冬の朝だった。吐く息は白く、庭に置かれた臼の表面は冷たく硬く、祖父母の家の周りには親類が集まり始め、賑やかな声が響いていた。薪がはぜる音、湯気が立ち昇る匂い、もち米の甘い香り。それらすべてがひとつの場をつくりあげ、生命が満ちるような温かさを感じさせた。仏教でいう「縁起」の言葉の通り、人も物も働きも、すべてが関わり合って餅は生まれてくる。その一端に触れた瞬間だった。

 妻の祖父は、普段はとても寡黙な人だったが、その手元の所作には迷いがなく、長年の経験から生まれた落ち着きがあった。臼の前に立つその姿には、どこか修行僧のような静かで揺るぎない強さがあった。「餅つき」とは単に餅を作る作業ではなく、そこには“心の調え”があり、“手間を惜しまぬ尊さ”があり、そして“受け継がれてきた知恵と祈り”のようなものが流れていた。

 蒸しあがったもち米を臼に移し、すぐに杵でつくのだと思っていた私の予想をよそに、まず長老格の方々は「捻り」の作業を始めた。初心者だった私はその存在を知らなかったが、この「捻り」こそが餅づくりの要であるという。ひと粒ひと粒のもち米を潰し、形を整え、均一にし、つくための準備を整える。力ではなく、丁寧な手の働きが求められる。

 まるで座禅のようだった。

 何の変哲もないように見える所作の中に心が整えられ、静けさが宿る。

 “急がず、粗雑にならず。ただひとつひとつをていねいに。”

 仏教でよく説かれる「行住坐臥、これみな修行」という言葉があるが、まさにその通りだった。

 捻りが終わり、もち米が“餅になる準備”が整ったと判断されると、私は祖父から杵を渡された。想像していたよりもずっと重かった。振り上げれば体がよろめき、狙いを定めて臼に振り下ろすには大きな勇気が必要だった。臼の縁に当たりそうになったとき、祖父はそっと横で支えてくれた。何も言わず、ただ静かに、しかし確かな力で見守ってくれた。

 振り下ろすたびに、もち米が徐々に粘りを帯びていく。まだ頼りない私の動きでも、「ひとつの働き」として餅が形を変えていくのがわかる。これもまた、縁起である。未熟な働きであっても、誰かの手が足りなければ、決して成立しない。祖父の捻りがあり、長老たちの準備があり、薪を割る人がいて、もち米を洗う人がいて、ようやく杵は意味を持つのだ。私はその中心に立たされ、「つかされている」自分に、ありがたさと責任を感じた。

 そして、つき上がった餅は温かく、柔らかく、ふわりと甘い匂いをたてて広がっていった。皆で丸め、きなこをまぶし、少し焦がした海苔で巻いて頬張る。その味は、ただの食べ物ではなく、人の働きと時間と祈りが溶け込んだ、ひとつの“いのちの結晶”だった。

 しかしその後まもなく、祖父は急に亡くなった。

 通夜の席で、義母がそっと言った。

「お父さんの臼と杵、引き継いでくれないか」

 私は迷わなかった。

 祖父の背中から感じた“教え”のようなものを、いつか自分なりに誰かに伝えたい。そう思って臼と杵をお寺に運んだ。

 しかし時代は変わり、人が集まる機会は減り、そしてコロナ禍が襲った。つどいも行事も控えられ、臼と杵は物置の奥で長い眠りについた。

 そして最近、久しぶりにその姿を確かめてみると、思っていた以上に風化が進んでいた。乾燥でひび割れ、表面はささくれ、ところどころ欠けてしまっている。かつて祖父が使っていた凛々しい姿は、もうどこにもなかった。

 その姿を目の前にしたとき、心がじんと痛んだ。

「もっと早く、面倒を見てあげればよかった」

そんな後悔と、祖父への申し訳なさが込み上げた。

 そして私は静かに臼に触れた。

 どこか冷たいのに、どこか温かい。

 まるで、祖父の手の温もりが少しだけ残っているようだった。

 それから私は臼と杵の修復を始めた。

 表面を優しく削り、ささくれを落とし、欠けた部分に向き合う。

 どこまで削ってよいのか、どこまで手を入れるべきなのか、判断がとても難しかった。

 削りすぎれば強度を失う。

 しかし削らなければ、餅に木屑が混じってしまう。

 その加減を見極めながら、木肌を撫でては、また少し削り、時に手を止める。

 その作業は、まるで自分自身の心を磨くようでもあった。

 仏教には「心の垢(あか)を落とす」という教えがある。

 人は日々、悩みや怒りや焦りといった“心のささくれ”を抱え、気づかぬうちに欠けをつくっている。臼の傷を見つめるとき、自分の中の傷もまた見えてくる。

 傷つくことは悪いことではない。

 欠けることも、悪いことではない。

 ただ、そのまま放置すれば、役に立たなくなる。

 誰かを傷つけたり、自分を苦しめたりしてしまう。

 だから、人も臼も同じように、「手入れ」が必要なのだ。

 放置した分だけ、余分に時間がかかる。

 けれど、丁寧に向き合えば、どんなに古くても、また新しい命が吹き込まれる。

 削るという作業は、同時に“そぎ落とす”ことでもある。

 無駄なものをそぎ落とし、本当に必要な形に戻す。

 それは仏教でいう「捨(しゃ)」の精神であり、悟りの道のひとつでもある。

 臼を手入れしながら、私は思った。

「人の心もこうして少しずつ整えていくのだ」と。

 人が集まれなかった年月を越え、今また少しずつ人と人が会えるようになった。

 この臼と杵にも、もう一度、命の働きを与えたい。

 子どもたちが杵の重さに驚き、大人たちが支えて、笑いながら餅をつく。

 その光景が戻ってきた時、祖父はきっとどこかで微笑んでくれるだろう。

 臼も人も、そして私の心も。

 少しずつ、削り、整え、磨き、また新しくなっていく。

 無常とは、ただ移ろうだけではない。

 正しく変わり続けられることそのものが、尊いのである。

 今日も私は、臼の表面を静かに撫で、そっと削り続ける。

その手のひらの温かさが、祖父の手に触れたあの日の記憶と、今を生きる自分をやさしくつないでくれている

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