薬を説くが如し

服すと服せざるとは医の咎に非ず

――仏遺教経に学ぶ、人生の責任と慈悲――

お釈迦さまがこの世を去られる間際、弟子たちに残されたお言葉をまとめたお経が『仏遺教経』です。

その中に、次のような一節があります。

「服すと服せざるとは医の咎に非ず」

現代の言葉にすれば、

「薬を飲むか、飲まないかは患者の選択であり、医者の責任ではない」

という意味です。

一見すると、少し突き放したような、冷たい言葉にも聞こえるかもしれません。しかし、この言葉の奥には、私たちが生きていくうえで非常に大切な教えが、静かに込められています。

仏さまは「医師」である

仏教では、しばしばこの世の苦しみを「病」にたとえます。

生まれ、老い、病、死。

思いどおりにならない人間関係。

失う不安、満たされない心。

こうした苦しみを見抜き、その原因を明らかにし、治療法を示された方――それがお釈迦さまです。

医師が患者を診察し、薬を処方するように、

仏さまは私たちの心を観て、

「なぜ苦しいのか」

「どうすれば楽になるのか」

を丁寧に説いてくださいました。

しかし、どれほど名医であっても、薬を飲まなければ病は治りません。

教えは「聞くだけ」では変わらない

私たちは、法話を聞くことがあります。

本を読み、ありがたい言葉に出会うこともあります。

そのとき、

「いい話を聞いた」

「なるほど、そうか」

と一時的に心が軽くなることはあるでしょう。

けれども、日常に戻れば、また同じことで悩み、同じことで怒り、同じところでつまずいてしまう。

それはなぜでしょうか。

それは、教えを“聞いただけ”で、まだ“服していない”からです。

薬を棚に置いたままでは、体は変わりません。

同じように、教えも、心に取り入れ、日々の行いの中で使ってこそ、はじめて働き始めます。

それでも仏さまは責めない

ここで大切なのは、

「服さない者は悪い」

と仏さまが責めているわけではない、という点です。

お釈迦さまは、人の弱さをご存じでした。

わかっていても、できない。

正しいと知っていても、流されてしまう。

だからこそ、仏さまは怒りません。

ただ、事実をそのまま語られるのです。

「服すと服せざるとは医の咎に非ず」

これは、

「私は道を示した。あとは、あなた自身の歩みである」

という、深い信頼の言葉でもあります。

人生のハンドルは、誰が握っているのか

私たちは、つい他人や環境のせいにしてしまいます。

「あの人が悪い」

「時代が悪い」

「運がなかった」

しかし仏教は、静かに問いかけます。

「では、あなたはどう生きるのですか」

誰かの言葉をどう受け取るか。

怒りに任せるのか、立ち止まるのか。

欲に振り回されるのか、足るを知るのか。

その選択の積み重ねが、今の自分をつくっています。

仏さまは、代わりに人生を生きてはくれません。

しかし、正しく生きるための地図は、すでに渡してくださっています。

教えを「少しだけ」服してみる

では、どうすればよいのでしょうか。

難しい修行をしなければならないのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。

・今日は一つ、感謝を口にしてみる

・怒りが出たら、すぐ言葉にせず深呼吸する

・人の話を最後まで聞いてみる

それだけでも立派な「服薬」です。

薬も、最初は少量から始めます。

仏の教えも同じです。

結びに

「服すと服せざるとは医の咎に非ず」

この言葉は、突き放しではなく、

私たち一人ひとりを尊重する、深い慈悲の言葉です。

あなたの人生は、あなたのもの。

だからこそ、あなた自身が選び、歩んでよい。

仏さまは、今日も静かに見守っておられます。

薬は、すでに手の中にあります。

どうか、ご自身の歩幅で、

一服、また一服と、

教えを味わいながら歩んでまいりましょう。

それが、苦しみを和らげ、

やがて人をも照らす道となるのです。


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