
猫が教えてくれる、ゆるやかな幸せの話
猫というのは、不思議な生き物だ。せわしなく動き回るでもなく、かといって怠けているわけでもない。まるで「この世界では、急いだところで良いことはひとつもないよ」とでも言いたげに、静かな呼吸で一日を満たしている。
我が家の猫も例外ではなく、一日の大半、つまり十六時間ほどは寝て過ごしている。ときどき薄目を開けては、あたりを確認するように尻尾をぴくりと動かし、また夢の世界へ戻っていく。その姿を見るたびに、私は「いいなぁ」と思わずにはいられない。
人間というのはどうも、「続けなければ」「頑張らなければ」と背中を押されるように生きてしまいがちだ。だが猫を見ていると、続けるよりも、続けない勇気のほうを教えられる気がする。
いつも何かに追われているような気持ちでいた自分にとって、猫の寝息は、「もっと力を抜いてもいいんだよ」という静かなメッセージだ。
朝になると、庭にスズメが集まる。冬でも夏でも、彼らは変わらずにチュンチュンと賑やかな声で新しい一日の訪れを知らせる。すると、さっきまで丸くなって寝ていた猫が、むくりと体を起こすのだ。
目が変わる。
たるんでいた表情が一瞬で引き締まり、まるで野生を取り戻したかのように、瞳がキラリと光る。そして口元が興奮のせいか少し震えて、「ニャニャッ」と普段とは違う、短い鳴き声を漏らす。狩りの血が騒ぐのだ。
とはいえ、そんな彼の胸元には小さな鈴がついている。姿は立派なハンターだが、鈴の音が「リンッ」と鳴った瞬間、スズメたちは一斉に飛び立ってしまう。猫は、慌てるでもなく、残念がるでもなく、ただ一つ「また逃げられたか」というように小さく尻尾を振るだけだ。
そのあっさりとした態度を見るたびに、私は思う。
――猫は、失敗しても引きずらない。
――失った獲物に固執しない。
――手に入らなかったものをいつまでも追わない。
なんと身軽で、なんと潔い生き方なのだろう。
人間のように「次こそは」「どうして逃したんだろう」と考えることもしない。ただ「今日はそういう日か」と、一呼吸おいて、次の行動へ移る。その柔らかい切り替えに、私は何度も救われる。
鈴のおかげで狩りができない猫は、当然ながら獲物を持ち帰ることはない。しかし彼には、ちゃんと用意されたカリカリのご飯がある。狩りの失敗に落ち込むどころか、スズメたちが飛び去ったあとには決まって、ご機嫌な足取りで餌皿へ向かうのだ。
頭を皿に突っ込むようにしてガッツリ食べ、満足すると水を飲む。ときおり、急いで食べ過ぎるせいか、お腹の中で膨れたご飯を戻してしまうことがある。それもまた、猫の「技術」なのだろうかと笑ってしまう。
猫は何をするにもマイペースだ。
寝るのも、食べるのも、遊ぶのも、怒るのも、甘えるのも。
そのどれもが「今、この瞬間にしたいからする」だけ。余計な理由も、計画も、見栄もない。
そんな猫のそばで暮らしていると、私の心の動きも少しずつ変わっていった。
たとえば、仕事のことで落ち込んだとき。
「どうしてあんな言い方をしてしまったんだろう」と後悔で胸が重いとき。
あるいは、やるべきことが山積みになって息苦しく感じるとき。
ふと横を見ると、猫が暖かい場所で丸くなって寝ている。胸が静かに上下し、穏やかな寝息が聞こえる。その姿は何でもないようでいて、心をほどく力がある。
猫は人生を難しくしない。
自分を責めない。
他人と比べない。
明日を不安がらない。
ただ「今、幸せでいられる場所」に体を預けているだけだ。
私は、そんな猫の生き方に何度も救われてきた。
「これでいいのかな」と不安なときは、猫の寝顔が答えをくれた。
「もっと頑張らなきゃ」と焦るときは、猫の伸びをする姿が心をほどいてくれた。
猫は言葉を話さないけれど、その所作ひとつひとつが、何より雄弁なのだ。
ある日、そんな猫の横でコーヒーを飲みながら、ふと気づいたことがある。
――私はずっと「続けなければ」と気負いすぎていた。
でも、猫は続けない日があっても気にしない。
むしろ「今日はしない日」と決めたように、堂々と眠る。
その姿があまりにも自然だから、私は思わず笑ってしまった。
人間も、本当はもっと自由に生きていいのかもしれない。
頑張る日があってもいいし、頑張らない日があってもいい。
前に進む日もあれば、立ち止まる日があってもいい。
むしろ、そうしたゆるやかな波の中でこそ、人生はゆっくりと深まっていくのだろう。
猫の一日を眺めていると、そんな大切なことを思い出させてくれる。
猫は今日も寝る。
気持ちよさそうに丸まり、幸せそうに眠る。
私はその隣で、湯気の立つコーヒーをすすりながら、そっと思う。
――今日もありがとう。
――あなたのおかげで、私は少しだけ優しくなれたよ。
そんなささやかな感謝を胸に、私はまた一日を始める。
猫と過ごす時間は、いつも私の心を温かくしてくれる。
そして今日もまた、庭にスズメがやってくる。
猫は目を覚まし、ハンターの顔になり、鈴がひとつ鳴る。
スズメは飛び去り、猫はカリカリを食べ、水を飲み、また眠る。
変わらない一日。
けれど、その中にある小さな幸せを、私は確かに感じている。

