祖父の1周忌

じいちゃんの法事にて ― ありがとう ―

今日こうして、じいちゃんの法事の日を迎えました。

あの日から、もう一年。

時間の流れというのは不思議なもので、長かったような、短かったような気がします。

じいちゃんのいない家は、どこか少し静かで、

仏壇の前に座ると、じいちゃんの笑顔が今にも声をかけてくれそうで。

そんな気配を感じながら、みんなでこうして集まることができました。

法事というのは、「亡き人を偲ぶ日」でもありますが、

同時に「ありがとうを伝える日」でもあります。

今日はその「ありがとう」という言葉を、心をこめてお話したいと思います。

―――

じいちゃんは、どんなときでも「まあ、ええじゃないか」と笑っていた人でした。

若いころは苦労も多かったそうです。

戦後の混乱の中で家族を守り、仕事に汗を流し、

決して楽な道ではなかった。

けれども、じいちゃんの口から「不平」や「愚痴」というものを聞いたことがありませんでした。

たとえ思いどおりにいかなくても、

「しゃあねえな」と笑って、

次の日にはもう、また田んぼに出ていた。

あの背中は、言葉以上の教えでした。

人は説法を聞かずとも、生き方で説法をしている――

今になって、じいちゃんが教えてくれたことの深さに気づきます。

―――

じいちゃんは、口数は少ないけれど、

いつも「食べたか?」「寒くないか?」と気づかってくれました。

それはまるで、言葉のかわりに「ありがとう」と「おかげさま」を渡しているようでした。

「ありがとう」って、簡単な言葉に見えるけれど、

ほんとうは深い言葉です。

「ありがとう」の反対は「当たり前」。

じいちゃんはいつも、「当たり前」を「ありがたい」に変えてくれる人でした。

朝、目が覚めること。

ご飯を食べられること。

仕事があること。

家族が笑っていること。

それらは決して、当たり前ではない。

一つひとつが「ありがたい」ことなんだ――。

そんなふうに生きていたじいちゃんの姿は、

まるで仏さまの教えそのものでした。

―――

お釈迦さまは、「この世のすべては移り変わる」とおっしゃいました。

生まれたものは、いつか滅びる。

咲いた花も、やがて散る。

出会いがあれば、別れもある。

その真理を「諸行無常」といいます。

じいちゃんの死も、そのひとつでした。

寂しくて、悲しくて、どうしていなくなってしまったのかと思いました。

でもね、仏教では「いのちは滅びるのではなく、形を変えて続いていく」と教えます。

風にゆれる稲の中に、

庭に咲く花の中に、

孫の笑顔の中に――。

じいちゃんのいのちは、ちゃんと生き続けているんです。

だから今日、この法事で手を合わせることは、

亡き人を呼び戻すためではなく、

「いま、ここにある命を感じるため」。

その命を支えてくれたすべてのものに、「ありがとう」を伝えるためなんです。

―――

思い返せば、じいちゃんはいつも「もったいない」が口ぐせでした。

お米を一粒も残さず食べ、

釘一本も無駄にせず、

物を大事にし、人を大事にした。

その「もったいない」という心には、

「いのちへの感謝」がありました。

お米ひと粒にも、

育ててくれた太陽や雨や土の力がある。

作ってくれた人の汗がある。

そのすべての「おかげさま」が、一膳のご飯になる。

「もったいない」と手を合わせる心は、

「ありがとう」と手を合わせる心と同じです。

今の時代、便利になったけれど、

感謝を忘れがちです。

ものがありすぎると、「ありがたみ」が薄くなる。

だからこそ、今日この法事の日に、

じいちゃんが教えてくれた「もったいない」の心を思い出したいのです。

―――

じいちゃんは、最後まで穏やかでしたね。

「よう頑張ったな」と、

私たちに言ってくれたような気がしました。

病室で眠るように息を引き取ったその姿は、

まるで仏さまのように安らかでした。

お寺でお経をあげたとき、

「観自在菩薩」という響きが、

静かに心に沁みました。

観音さまの「自在」は、

「私にまかせなさい」という意味だといいます。

つまり、

「じいちゃんよ、もう大丈夫。

 あなたのいのちは、仏の光の中で安らいでいますよ」

ということなんです。

だから、私たちは泣いてもいいけれど、

泣きながらでも「ありがとう」を言いたい。

それが何よりの供養になるんです。

―――

法事とは、「故人のため」だけでなく、

「いまを生きる私たちのため」にあります。

じいちゃんの死を通して、

私たちは「生きる」ということをもう一度見つめ直す。

人は、永遠に生きられない。

だからこそ、一日一日が尊い。

「ありがとう」と言える日々こそ、幸せなんです。

今日もご飯を食べられる。

家族がいる。

笑い合える。

それだけで、じいちゃんはきっと天国で微笑んでいることでしょう。

―――

お経の中に、「生者必滅、会者定離(しょうじゃひつめつ、えしゃじょうり)」という言葉があります。

生あるものは必ず滅び、出会うものは必ず別れる。

しかし同時に、別れは終わりではなく、「つながりの形が変わる」だけだとも教えます。

じいちゃんは、もう声をかけることはできないけれど、

心の中で話しかけると、ちゃんと聞いてくれているような気がします。

仏壇に手を合わせると、

胸の奥がぽっとあたたかくなるのは、

きっと、じいちゃんがそこにいてくれるからです。

―――

じいちゃん、ありがとう。

あの日、初めて自転車を押してくれたこと。

一緒に田んぼに入って泥だらけになったこと。

お風呂上がりにスイカを割ってくれたこと。

お盆に花火を一緒に見たこと。

すべての時間が、いまも心の宝物です。

じいちゃんが残してくれたものは、

お金でも、形あるものでもありません。

それは、「生き方」でした。

不平を言わず、

与えられた場所で、

笑顔で、誠実に、

「ありがとう」と言いながら生きること。

それが、じいちゃんからの一番の教えです。

―――

じいちゃん、ありがとう。

出会ってくれて、ありがとう。

育ててくれて、ありがとう。

見守ってくれて、ありがとう。

どうかこれからも、私たちを見守っていてください。

そして、私たちは今日からまた、

「ありがとう」と言える日々を大切に生きていきます。

このいのち、この時間、この家族、

すべてが「おかげさま」です。

合掌

タイトルとURLをコピーしました