
坐禅という「たのしみ」
――静けさの中にある、いのちのよろこび――
朝の本堂に座ると、まだ誰もいない静けさの中に、
鳥の声がひとつ、ふっと響きます。
光が障子をやさしく透かして、畳の上に模様を描いている。
そんな時間に、そっと坐禅を始める。
坐禅というと、「修行」だとか「厳しいもの」だと思われがちです。
確かに、昔の禅僧たちは寒さや眠気と戦いながら座り続けました。
けれど、本来の坐禅とは「戦うこと」ではありません。
むしろ、いのちと仲良くなる時間なのです。
お茶を楽しむように、音楽を楽しむように、
坐禅もまた、「たのしむ」もの。
今日はそのことを、やわらかくお話ししてみたいと思います。
1.まず、座ってみること
坐禅の第一歩は、形でも知識でもなく、「ただ座る」ことです。
お釈迦さまは、菩提樹の下に静かに座り、
呼吸を感じながら、心の波が静まるのを待ちました。
特別な方法を求めたわけではありません。
ただ、いのちそのものと一緒に座ったのです。
現代の私たちも、忙しい日々の中で、
「何かをしなくては」「効率よく過ごさねば」と、常に動いています。
しかし、動きすぎる心は、やがて疲れてしまう。
だからこそ、時々「何もしない」時間が必要なのです。
坐禅とは、「しなければならない」からするものではありません。
心のほこりを落とし、いのちの呼吸を味わう時間。
その入口は、いつだって静けさの中にあります。
2.呼吸を「味わう」
坐禅を楽しむいちばんのコツは、呼吸を味わうことです。
息を吸うとき、「ああ、生きているなぁ」と感じる。
息を吐くとき、「ありがとう」と心の中でつぶやく。
その繰り返しが、心をやわらかくしていきます。
息という字は、「自分の心」と書きます。
呼吸とは、心のかたちそのものなのです。
浅い息の日は、心も浅く。
深い息の日は、心もおだやか。
坐禅をしていると、自分の呼吸の癖に気づきます。
ああ、今日はせっかちだな。
あれ、なんだか胸がつかえているな。
そう気づいたら、無理に直そうとせず、
ただ「今の私の息」をそのまま感じてください。
仏教では、「気づく」ことを智慧(ちえ)といいます。
呼吸を通して自分を知る。
それだけで、すでに坐禅は深まっているのです。
3.「楽しむ」とは、比べないこと
坐禅をすると、すぐに「あの人より長く座れた」「今日は集中できた」など、
心の中で比べてしまうことがあります。
でも、坐禅に上手・下手はありません。
五分でも、十分でも、座ればそれでいい。
仏さまは、「結果」ではなく「姿」を見てくださいます。
たとえば、雨の日の蓮の花。
大輪に咲く花もあれば、まだ蕾のままの花もある。
どちらも美しく、どちらも仏さまの慈悲のなかに咲いています。
人間も同じです。
今、静かに座っているその姿こそ、もうすでに仏さまの姿なのです。
坐禅を「楽しむ」とは、他と比べず、自分をそのまま受け入れること。
「今日の私は、今日のままでいい」
そう言えるようになったとき、心はほんとうに自由になります。
4.雑念は、友だちにする
坐禅をしていると、いろいろな考えが浮かびます。
「あの人に言われたことが気になる」「夕飯どうしよう」「あの仕事まだ終わってない」……。
そんな雑念が浮かぶたび、「だめだ、集中しなきゃ」と思ってしまう人が多いのですが、
じつは、雑念は「敵」ではありません。
坐禅の先輩たちはこう言います。
「雑念は心の呼吸のようなもの」だと。
それを追い払おうとすると、かえって増えてしまうのです。
ですから、雑念が出てきたら、
「ああ、また考えてるな」と、やさしく見つめてください。
そして、そっと呼吸に戻る。
それで十分です。
この「やさしく見つめる」という態度が、坐禅の核心です。
心を押さえつけるのではなく、ただ見守る。
それが、仏のまなざしなのです。
5.身体の声を聴く
坐禅をしていると、身体の痛みや違和感を感じることがあります。
足がしびれたり、腰が重くなったり。
けれど、それもまた、身体の声なのです。
私たちは日常で、頭ばかり使い、身体の声を忘れています。
坐禅をしていると、身体が「ここにいるよ」と教えてくれる。
ああ、自分のいのちがここにあるんだな、と気づかされます。
痛みを感じたら、それも「いのちの声」として受けとめてみてください。
無理をせず、姿勢をゆるめるのも修行のうち。
坐禅は我慢大会ではありません。
自分を大事にする練習です。
6.静けさの中に見える「いのち」
坐禅を続けていると、不思議なことに、
何もしない時間がいちばん豊かに感じられるようになります。
風の音、鳥の声、雨の気配――
そのどれもが、いのちの響きとして耳に入ってくる。
そして、ふとした瞬間に気づくのです。
「自分もまた、この世界のいちぶなんだ」と。
仏教では、「縁起(えんぎ)」といいます。
この世のすべては、互いに支え合いながら存在している。
花が咲くには、土も水も光も風も必要。
人が生きるにも、たくさんの“ご縁”がある。
坐禅の静けさの中で、その「つながりのありがたさ」を感じられるとき、
心はやさしく、しなやかになります。
7.「たのしむ」とは、「ありがたい」と感じること
あるお年寄りが言いました。
「わしは、坐禅を修行と思ってたけど、今は“ごほうび”だと思うようになった」
その方は、毎朝30分座ります。
特別な悟りがあるわけでもなく、ただ静かに座る。
でも、その時間が「一日の中でいちばん幸せ」だと笑っておられました。
坐禅は、がんばるためのものではなく、
「ありがたい」と感じるためのもの。
息ができること、身体が動くこと、朝の光があること。
その一つひとつに気づくだけで、世界がやさしく変わっていきます。
「坐禅を楽しむ」とは、結局のところ、
生きていることを楽しむということなのです。
8.終わりに──いのちと仲良くなる時間
坐禅というのは、「心をからっぽにする練習」ではなく、
「心と仲良くなる時間」です。
今日、うまく座れなくてもいい。
眠くなっても、足がしびれてもいい。
その一瞬一瞬が、あなたのいのちのあかしです。
仏教には「只管打坐(しかんたざ)」という言葉があります。
ただひたすらに座る。
そこに目的を求めず、ただ“いま”を生きる。
それが、最も純粋な「楽しみ」なのです。
そして、坐禅を終えて立ち上がるとき、
世界の色が少しだけやさしく見える。
人の声が、風の音が、どこか懐かしく響く。
それは、心が少しだけ澄んだからでしょう。
どうぞ、坐禅を「努力」ではなく「楽しみ」として続けてみてください。
それは、あなた自身のいのちと手をつなぐ、静かな喜びの時間です。
今日もまた、いのちにありがとう。
そして、あなたの坐る姿に、合掌

