優しさに包まれて

私たちは日々の暮らしの中で、自分に対して少し厳しすぎるのかもしれません。

「まだ足りない」「もっと頑張らなければ」「どうして自分はできないのだろう」――そのような思いが、知らず知らずのうちに心を曇らせてしまいます。

けれども、少し立ち止まってみてください。

今ここまで歩んできた自分を、どれほど丁寧に見つめてきたでしょうか。

朝起きて、一日を始めること。

誰かのために少し心を配ること。

うまくいかなくても、また次の日を迎えていること。

それら一つひとつは、決して当たり前ではなく、すでに尊い歩みであります。

仏教では、「執着を手放し、ありのままを認める智慧」を大切にいたします。

しかし、この教えは時に誤って、「自分を否定すること」と受け取られてしまうことがあります。

本来はそうではありません。

「無我」とは、自分が無いということではなく、「こうでなければならない」と固く縛られた自分は無い、という意味であります。

つまり、「もっと立派でなければならない」「人より優れていなければならない」という思いを、そっと手放してもよいということです。

そういたしますと、不思議なことに、心が少し軽くなります。

そして、「このままでも、少しは大丈夫かもしれない」と思える余白が生まれてまいります。

私たちはつい、人と比べてしまいます。

「あの人はできているのに」「自分はまだまだだ」と。

けれども、比べる必要はありません。

なぜなら、それぞれがまったく違う歩みをしているからです。

昨日の自分と比べてみてください。

ほんの少しでも前に進んでいれば、それは立派な一歩であります。

たとえ進めなかったとしても、「今日は休む日だった」と受け止めればよいのです。

休むこともまた、大切な歩みの一つであります。

また、日本では「役に立つこと」に価値を見出すことが多くあります。

しかし、何かをしている時だけが尊いのではありません。

静かに座っている時間。

何もせず、ただ風を感じている時間。

そのようなひとときも、心を整える大切な時間であります。

どうか、「何もしていない自分」を責めないでください。

それもまた、次の一歩を支える大切な時間なのです。

そして、日々の中で小さな「よかった」を見つけてみてください。

「今日はきちんと起きられた」

「挨拶ができた」

「少しでも笑顔になれた」

どんなに小さくてもかまいません。

その一つひとつが、心に温かな灯りをともしてくれます。

仏教でいう「精進」とは、無理をして頑張ることではなく、

このような小さな歩みを、丁寧に重ねていくことであります。

また、呼吸に意識を向けることもおすすめいたします。

ゆっくり息を吸い、ゆっくり吐く。

それだけで、心の波は静かになってまいります。

心が静まると、不思議と自分を責める声もやわらいでいきます。

すると、「自分はこれでいい」とまでは言えなくとも、「これでもいいのかもしれない」と思える瞬間が訪れます。

その感覚こそが、やがて静かな自己肯定感へと育っていくのです。

自己肯定感とは、大きな自信や誇りではありません。

誰かに誇るためのものでもありません。

それは、

「自分を責めずにいられる心」

「自分とともに穏やかにいられる状態」

であります。

私たちは皆、完全ではありません。

だからこそ支え合い、だからこそ優しくなれる存在です。

どうか今日一日、ほんの少しだけでも、自分に優しくしてみてください。

そして、「よくやっている」と、心の中でそっと声をかけてみてください。

その小さな言葉が、やがて心を明るく照らし、

穏やかな安心へと導いてくれることでしょう。

皆さまの歩みが、今日もやさしい光に包まれますように。

合掌。

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