夜坐禅は2部構成

長谷寺で行っている夜坐禅の時間を、あえて二部構成にしているのには理由があります。そこには、私たちの心の働きと、仏さまの教えが深く関わっています。

まず前半は、壁に向かって静かに坐る時間です。これは外の世界から一度離れ、自分自身と向き合う時間であります。誰とも話さず、ただ呼吸を整え、姿勢を正し、湧き上がってくる思いや感情をそのままにしておく。何かを考えようとするのではなく、浮かんでくるものを否定せず、追いかけもせず、ただ見つめるのです。

私たちの心は実に忙しいものです。過去の出来事、未来の不安、人の言葉、自分への評価――あらゆる方向へと瞬時に飛び回ります。その様子を、あたかも一歩引いたところから「眺める」ように見護る。これが坐禅の大切な姿勢です。

ここで大切なのは、「逃げない」ということです。嫌なこと、向き合いたくない課題ほど、心は無意識に避けようとします。しかし、そこにこそ自分の苦しみの根がある。だからこそ、静かに坐り、その課題を真正面から受けとめていくのです。

この姿は、仏教でいう「苦・集・滅・道」、すなわち四諦の教えそのものであります。

まず「苦」。これは、自分が抱えている悩みや問題に気づき、それを直視することです。「なかったこと」にするのではなく、「確かにある」と認めることから始まります。

次に「集」。その苦しみがどこから来ているのか、その原因や要因を丁寧に見ていきます。人との関係なのか、自分の思い込みなのか、過去の経験なのか。時には直接的な原因だけでなく、さまざまな縁が重なって今の状況があることにも気づかされます。

そして「滅」。見えてきた要因に対して、どのように向き合えばよいのか、いくつもの方向から考えていきます。一つの答えに固執するのではなく、柔らかい心で可能性を探るのです。

最後に「道」。考えたことを、実際に行動に移してみる段階です。どんなに良い考えも、行動しなければ現実は変わりません。実行してみて、うまくいけば苦しみは和らぎます。もし思うような結果でなければ、再び「苦」に戻り、もう一度見つめ直せばよいのです。この繰り返しこそが、歩みそのものなのです。

坐禅の時間は、まさにこの流れを頭の中で自然に行わせる場でもあります。ただし、自分が無理に考えを進めるのではなく、心の動きを静かに見守ることが大切です。

そして後半は、茶話会の時間です。車座になり、お茶をいただきながら、それぞれが思いを言葉にしていきます。ここでは、立派な話をする必要はありません。表面的な話でも、日常のささいな出来事でも構いませんし、心の奥底にある思いを語ってもよいのです。

興味深いのは、深い話が自然と出てくる場には、それを受け止める深さがすでに備わっているということです。人生の中でさまざまな経験――いわば修羅場をくぐってきた方ほど、人の言葉に揺らがず、しかし温かく耳を傾けることができます。そして、その一言が、聞く人の心に深く響くことがあります。

ただし、どれほど良い助言を受けても、それをどう受け止め、どう行動するかは、その人自身に委ねられています。仏教は「こうしなさい」と強制する教えではありません。気づきの種を受け取り、それを育てていくのは、自分自身なのです。

また、坐っていると気づくことがあります。それは、「この問題は本当に自分の課題なのか」ということです。実は、多くの悩みは他人の問題であり、自分ではどうすることもできないものだったりします。そのときは、「自分にはどうすることもできない」と静かに納得することも、大切な智慧であります。

手放すべきものを手放し、向き合うべきものに向き合う。その見極めができたとき、心は少し軽くなります。

このように、前半の坐禅で自分の内面を見つめ、後半の茶話会でそれを分かち合う。この二つは別々のものではなく、一つの流れとしてつながっています。静と動、内と外、その両方を大切にすることで、私たちは少しずつ自分自身を理解し、心の在り方を整えていくのです。

どうぞ、坐る時間を恐れず、また語る時間を遠慮せず、それぞれの歩みを大切にしていただければと思います。それこそが、日々の暮らしの中で仏の道を歩む、確かな一歩となるのです。

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設置説明書は 公開してある画像は圧縮した形ですが、ダウンロードしてそのままa4で印刷、必要箇所を切り取り、223倍に拡大すると使用できることがわかりました。

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