
不信実なことを語る者は地獄に行く。自分自身で行なっておきながら、私はそんなことはしない、などと言うとも、これらの両者が死後において受ける運命は共に同一である。彼らは次の生涯においては共に卑しいなりわいの人となるのである。
この一節は、とても厳しくもあり、同時に人の生き方の核心を突く教えです。出典は、仏教の根本経典のひとつである ダンマパダ に見られる思想と深く重なります。
ここで説かれているのは、大きく二つの過ちです。一つは「不信実なことを語る者」すなわち、真実でないことを語り、人を欺くこと。もう一つは「自ら行っておきながら、それを否定する者」つまり、悪い行いをしながら責任を認めず、偽ることです。仏教では、この二つはどちらも「心の濁り」から生まれると考えます。それは、自己を守ろうとする執着や、他人からよく見られたいという欲、あるいは恐れです。しかし重要なのは、「行為」と「言葉」が一致していないことです。仏教においては、**身(行い)・口(言葉)・意(心)**が調和していることが、正しい生き方とされます。この教えが厳しく感じられるのは、単に「嘘をつくな」という道徳にとどまらず、自分をごまかすこと 自分の行いに向き合わないことそのものが、苦しみの原因になると説いているからです。「地獄に行く」という表現も、単なる死後の世界の話だけではなく、今この瞬間の心の状態とも言えます。嘘をつき続ける人は、心が落ち着かず、自分自身を信じることができなくなります。それこそが、すでに「地獄のような状態」とも言えるのです。そして「次の生涯において卑しいなりわいになる」というのも、因果の道理を示しています。つまり、心の在り方が、そのまま次の生き方を形づくるということです。では、この教えは私たちに何を勧めているのでしょうか。それは、完璧であれということではありません。むしろ、「過ちを認める勇気を持つこと」です。人は誰しも間違いを犯します。しかし、その後に正直に認めるのか ごまかして隠すのかここに大きな分かれ道があります。正直に認めたとき、心は軽くなり、次に進む道が開かれます。反対に、隠し続けると、その嘘を守るためにさらに嘘を重ね、心はますます縛られていきます。仏教の教えは、罰を与えるためのものではなく、苦しみから離れるための道を示しています。ですからこの言葉は、恐れるためではなく、「今この瞬間、正直に生きているか」と自らに問いかけるための鏡なのです。どう生きるかは、常に今の選択に委ねられています。

