
今宵もこうして夜坐にお集まりいただき、ありがとうございます。
誰もが迷い、悩み、苦しんで、解決の糸口を探しながら生きています。その一助になれたら、お観音さまもお喜びになることでしょう。
私たちは、ともすると「悩んでいる自分は弱いのではないか」「どうしてこんなことで心が揺れるのだろう」と、自分を責めてしまいます。しかし、知らないのだから悩んで当たり前なのです。先が見えないから不安になる。相手の本心がわからないから腹が立つ。未来が読めないから恐ろしくなる。それは人として自然なことです。
仏教では「無明(むみょう)」という言葉があります。ものごとの本当の姿を知らないこと。しかし無明は罪ではありません。むしろ、私たちが生きている証のようなものです。すべてを知り尽くしている人など、どこにもいません。
そしてもう一つ大切なのは、「他の人もおんなじように悩んでいる」ということです。誰かの冷たい言葉、そっけない態度。その裏側には、その人なりの不安や苦しみがあるのかもしれません。余裕がなくて、そんな対応をしたのかもしれません。
そう思えたとき、少しだけ世界がやわらぎます。
これから、初めて夜坐に参加された方もおられるでしょう。お寺の敷居はきっと高く感じたはずです。「何をするのだろう」「作法を間違えたらどうしよう」「自分なんかが来てよいのだろうか」そんな思いを抱えながら、一歩を踏み出してくだされるのではないでしょうか。
その勇気に、心から感謝申し上げます。
お寺は、特別な人のための場所ではありません。悩み、迷い、疲れた人が、少し腰を下ろすための場所です。うまく坐れなくてもかまいません。足が痛くなってもかまいません。雑念が湧いても、まったく問題ありません。
どんな感想をもたれるでしょうか。
「思ったより静かだった」
「足が痛かった」
「いろいろな考えが次々に浮かんできた」
それでよいのです。
ゆっくり息を整えて、静かに座ると、今まで気づかなかったものが、少しずつ見えてきます。外の音。自分の鼓動。心のざわめき。普段は忙しさにかき消されているものが、静かに姿を現します。
最初は、心の中の騒がしさに驚くかもしれません。しかしそれは、もともとそこにあったものです。ただ、見えていなかっただけです。
坐禅は、何かを消す修行ではありません。
ただ、あるものをそのまま観る修行です。
怒りがあれば、「ああ、怒りがある」と観る。
悲しみがあれば、「悲しみがある」と観る。
不安があれば、「不安がある」と観る。
評価しない。追い払わない。抱きしめすぎない。
ただ、気づいている。
すると不思議なことに、それらは少しずつ力を失っていきます。なぜなら、私たちはそれらそのものではないからです。怒りを感じている自分はいても、怒りそのものではない。悲しみを抱えていても、悲しみそのものではない。
もっと大きな流れの中に、私たちは生かされています。
夜の静けさの中で坐っていると、その「大きな流れ」を、かすかに感じる瞬間があります。自分一人で頑張っているのではない。無数のご縁に支えられて、いまここに在る。
観音さまは「観世音」と書きます。世の音を観る方。世の中の苦しみの声を、静かに聴いておられる存在です。観音さまは、苦しみをすぐに消してしまう魔法の存在ではありません。苦しむ私たちを、穏やかに見護ってくださる存在です。
私たちもまた、坐ることで、少しだけ観音さまに近づきます。自分の心の声を聴く。他人の苦しみを想像する。すぐに裁かない。すぐに結論を出さない。
観じたままに受け取ることができれば、それはもう、穏やかに見護ることができます。
自分自身を見護る。
家族を見護る。
社会を見護る。
すぐに解決できなくてもよいのです。糸口がすぐに見つからなくてもよいのです。ただ、慌てず、騒がず、いま起きていることを観る。その姿勢そのものが、解決へと向かう道になります。
夜坐は、そのための時間です。
ここで感じた静けさを、どうか日常にも少し持ち帰ってください。誰かに腹が立ったとき、深く一息つく。悲しくなったとき、空を見上げる。答えを急がず、「いま悩んでいる自分がいる」と認める。
それだけで、心の風景は変わります。
誰もが迷い、悩み、苦しんでいます。
だからこそ、ここに集っています。
今夜この場に坐ったという事実が、すでに大きな一歩です。その一歩を、観音さまはきっと微笑みながら見ておられるでしょう。
どうかこれからも、迷いながらでかまいません。悩みながらでかまいません。その都度、立ち止まり、息を整え、静かに観る。その繰り返しが、やがて穏やかな心を育てます。
今宵の静けさが、皆さまの明日をやわらかく照らしますように。
合掌。

