
「知らなかった」と気づくご縁
久方ぶりに公民館にお伺いしました。
入り口にこのようなものを配布しておりました。知らなかったので記します。
そこには「あつぎくらし応援事業」「申請書はこちら」「1人6,000円キャッシュバック」と大きく書かれていました。市民の暮らしを支えるための取り組みです。箱の中には申請書が整然と並べられ、必要な方が自由に持ち帰れるようになっていました。
私はその前に立ち、しばらく考えました。
「知らなかった。」
ただそれだけのことですが、その一言が心に響いたのです。
知らないということは、決して悪いことではありません。しかし、知らなければ受けられる支援も受けられない。知らなければ差し伸べられている手にも気づかない。知らないままでいると、世界は狭くなってしまいます。
仏教では「無明(むみょう)」という言葉があります。無明とは、物事の真実を知らないこと。私たちの苦しみの根本にあるものだと、お釈迦さまは説かれました。
しかし、無明は責められるものではありません。
大切なのは、「ああ、自分は知らなかったのだ」と気づくことです。
公民館の入り口に置かれた申請書は、静かにそこにありました。大声で呼びかけるわけでもなく、ただ必要な人を待っている。その姿は、どこか仏さまの慈悲にも似ています。
仏さまの教えもまた、声高に迫るものではありません。
ただ静かに、そこにある。
気づいた人が手に取ればよいのです。
私たちは時に、「自分は大丈夫」「まだ困っていない」と思い込みます。しかし世の中には、思いがけず助けが用意されていることがあります。それに気づけるかどうかは、日頃から心を開いているかどうかにかかっています。
知らなかったので記します。
この言葉には、二つの意味があるように思います。
ひとつは、自分への気づき。
もうひとつは、他者への分かち合い。
「私は知らなかった。でも、誰かは必要かもしれない。」
その思いがあるからこそ、記すのです。これは小さな慈悲の行いです。
仏教では「布施(ふせ)」という教えがあります。布施とは、お金や物だけを施すことではありません。情報を分かち合うことも布施です。安心を伝えることも布施です。
公民館の入り口に置かれた申請書は、市の布施です。
それを誰かに伝えることは、私たちの布施です。
また、この出来事は「ご縁」についても考えさせられます。久しぶりに公民館へ足を運んだ。たまたま入り口を通った。その偶然の積み重ねが、「知る」という結果を生みました。
仏教では、すべては因縁によって成り立つと説きます。
原因と条件がそろって、物事は現れます。
もしその日、公民館へ行かなければ、私は知らないままだったでしょう。つまり、行動がご縁を開くのです。
これは仏道修行にも通じます。
坐禅を組まなければ、静けさの深さは分かりません。
経を開かなければ、教えの温かさは伝わりません。
動くから、出会う。
出会うから、知る。
知るから、世界が広がる。
そしてもうひとつ大切なことがあります。
支援があるという事実は、「あなたは一人ではありません」という社会からのメッセージでもあります。苦しいとき、困ったとき、助けを求めてよいのです。
仏さまもまた、常に私たちを見守っておられます。しかし私たちは、「自分で何とかしなければ」と思い込み、助けを求めることをためらいます。
けれど、助けを受け取ることは、弱さではありません。
それはご縁を受け入れる智慧です。
公民館の入り口に置かれた申請書を見ながら、私は思いました。
世の中には、まだまだ知らないことがある。
まだまだ気づいていない優しさがある。
だからこそ、外に出ること。
人に会うこと。
足を運ぶこと。
それが大切なのです。
そして何より、「知らなかった」と素直に言える心を持ち続けること。
年齢を重ねると、「知らない」と言いにくくなります。しかし、「知らなかった」と言える人は、まだ学べる人です。まだ成長できる人です。
仏道とは、完成を目指す道ではありません。
気づきを重ねる道です。
今日一つ、知らなかったことを知る。
今日一つ、誰かに分かち合う。
それだけで、人生は少し明るくなります。
久方ぶりに公民館にお伺いしました。
入り口にこのようなものを配布しておりました。知らなかったので記します。
この何気ない出来事も、私にとっては大切な法縁でした。
どうか皆さまも、日常の中の小さな掲示や張り紙を、ただの紙と思わずに見てください。そこに社会の思いやりが込められているかもしれません。
そしてもし、何かを知ったなら、そっと誰かに伝えてください。
それが慈悲の種となります。
知らなかったと気づくこと。
気づいたことを分かち合うこと。
その積み重ねが、私たちの心を少しずつ明るくしていくのです。
合掌。

