
「基本の基」からはじめる人生
最近、私はある本を手に取りました。
『Jw_cadで学ぶ建築製図の基本』という、まさに「基本」と書かれた一冊です。
これまで長い年月を重ねてきましたが、正直に申しますと、「基本の基」を知らないまま日々を重ねてきた自分に気づかされました。なんとなくできる。なんとなく分かっている。けれど、土台が曖昧なまま歩いてきたのではないか——そう思ったのです。
しかし、そのことに気づいた時、心のどこかが少し明るくなりました。
知らないことが分かったのなら、それを学べばよい。
それだけのことなのです。
お釈迦さまは、「無明(むみょう)」、つまり“知らないこと”こそが迷いの根本であると説かれました。知らないこと自体が悪いのではありません。知らないままでいること、知ろうとしないことが、苦しみを深くしてしまうのです。
私たちは年齢を重ねると、どこかでこう思ってしまいます。
「今さら学ぶのは恥ずかしい」
「もう若くないから無理だ」
「できない自分を見たくない」
けれど本当は違います。
人生で一番若い日は、いつでしょうか。
それは「今」です。
昨日より今日の方が若い。明日より今日の方が若い。
ならば、始めるのにこれ以上良い日はありません。
建築でも、まず基礎工事があります。土台がしっかりしていなければ、どんなに立派な柱を立てても、どんなに美しい屋根をかけても、やがて歪みが生まれます。目に見えない土台こそが、すべてを支えているのです。
仏道も同じです。
いきなり悟りを求めるのではありません。
まずは挨拶を丁寧にすること。
履き物を揃えること。
目の前の人の話を最後まで聞くこと。
それが「基本の基」です。
『正法眼蔵』を書かれた道元禅師は、「修証一等(しゅしょういっとう)」と説かれました。修行と悟りは別々ではなく、今この瞬間の実践そのものが悟りの現れだという教えです。つまり、「いま、基本を学ぼうとするその心」こそが、すでに尊いのです。
知らない自分に気づいたとき、人は二つの道に分かれます。
ひとつは、見なかったことにする道。
もうひとつは、素直に学び始める道。
素直さは、仏道における大きな徳です。
子どもは転んでも、また立ち上がります。できるまで何度も繰り返します。恥ずかしいという概念がまだ強くないからです。ところが大人になると、転ぶことを恐れ、挑戦する前にあきらめてしまう。
けれど仏さまの前では、私たちは皆、修行中の身です。完成した人など一人もいません。むしろ、「私はまだ知らない」と言える人の方が、すでに一歩前に出ているのです。
ある意味で、「知らない」と気づくことは智慧の芽生えです。
般若心経に「無智亦無得(むちやくむとく)」とあります。
智慧を得たと思い込むことが執着になる。だからこそ、空(くう)の立場から見れば、得るものも固定された知識もない。しかしだからこそ、いつでも新しく学べる自由があるのです。
基本に戻るとは、初心に帰ること。
初心とは、はじめて心を起こすと書きます。
その心が、いま起こったなら、それがあなたの初心です。
何歳であろうと関係ありません。
七十でも八十でも、はじめれば初心者です。
そして初心者は、可能性の塊です。
私は本を開きながら、線を引く練習を始めました。まっすぐな線を引く。ただそれだけのことが、思いのほか難しい。しかしその一本の線に集中していると、不思議と雑念が静まります。坐禅のように、ただ今を生きる時間が生まれます。
基本とは、単純です。
単純だからこそ、誤魔化しがききません。
仏道も同じです。
呼吸に気づく。
手を合わせる。
感謝を言葉にする。
どれも簡単なことです。けれど継続するのは難しい。だからこそ尊いのです。
人生は、立派な肩書きで完成するのではありません。
どれだけ基本を大切にしてきたかで、深みが決まります。
もし今、「自分は基本を知らないまま来てしまった」と思うなら、それは決して遅れではありません。それは、目が覚めた瞬間です。
夜明けは、気づいた人から始まります。
今日という一日が、これまでの人生で一番若い日です。
今日という一日が、これからの人生で一番早い出発点です。
さあ、やってみましょう。
できるかどうかではなく、やるかどうか。
上手かどうかではなく、続けるかどうか。
仏さまは、完成を求めてはいません。
一歩踏み出す勇気を、静かに見守っておられます。
基本の基から始める人生は、決して小さな歩みではありません。
それは土台を築く、最も尊い行いです。
どうか皆さまも、何かひとつでよいのです。
「知らなかった」と気づいたことを、今日から学んでみてください。
人生で一番若いのは、今です。
今この瞬間を、初心として歩み出しましょう。
