
一台のハンディー掃除機があります。
いただきものとしてご縁をいただき、長年にわたりお寺の清掃に力を尽くしてくれました。しかし、ある日とうとう充電ができなくなりました。動かない。吸わない。役目を終えたかのように静かに横たわっている。
「もう寿命かな」
そう思えば、それで終わりだったかもしれません。しかし、充電バッテリーを新たに購入し、分解し、内部を清掃し、組み換えてみる。すると再び力強く回転し、ほこりを吸い込み始めたのです。
この出来事は、まるで私たち自身の姿のようであります。
お釈迦さまは「すべてはご縁によって成り立つ」と説かれました。これを縁起(えんぎ)と申します。
掃除機もまた、モーター、フィルター、バッテリー、ねじ一本に至るまで、多くの部品が組み合わさって働いています。そのどれか一つが欠けても、全体は機能しません。
私たちの身体も心も同じです。
骨、筋肉、血液、そして感情や思考。無数の要素が寄り集まり、「私」という働きを成しているにすぎません。
掃除機のバッテリーが弱れば動きません。それは壊れたのではなく、「力が尽きただけ」です。
私たちもまた、日々の疲れや悩みの中で、「もうだめだ」と感じることがあります。しかしそれは、存在そのものが価値を失ったのではなく、ただ心の電池が消耗しているだけかもしれません。
仏教では、これを「無常」と申します。
すべては変わりゆく。強い時もあれば、弱る時もある。それが自然の姿です。
掃除機を分解してみると、内部には長年の埃が溜まっていました。見えないところに積もった汚れが、吸引力を弱めていたのです。
これは私たちの心の姿に似ています。
怒り、後悔、妬み、不安。日々の中で少しずつ積もる塵のような感情。それを放置すれば、やがて心の働きを鈍らせます。
禅では、坐禅を「心の掃除」と申します。
静かに座り、呼吸を整え、浮かぶ思いをただ見つめる。追い払うのでもなく、抱え込むのでもない。ただ気づく。それだけで、心の奥に溜まった塵は少しずつ落ちていきます。
今回、掃除機は新しいバッテリーを得て、再び働き始めました。
けれども大切なのは、「新しくなった」ことではありません。
もともと備わっていた力が、再び発揮されたということです。
仏教では、誰の心にも仏の性(さが)が宿ると説きます。これを仏性といいます。私たちは本来、清らかに働く力を持っている。しかし煩悩という埃に覆われ、その力を忘れているだけなのです。
掃除機は文句も言わず、ただ黙々と埃を吸い続けます。
その姿は、まるで修行僧のようでもあります。
お寺の清掃は、単なる作業ではありません。
床を拭くとき、庭を掃くとき、自分の心を磨いているのです。
ある禅僧が申しました。
「掃除とは、塵を払うのではない。己の心を払うのである」と。
壊れたと思われた掃除機が、再び働く姿を見て、私は思いました。
人もまた、何度でも立ち上がれる。
年齢を重ねても、失敗を重ねても、心の電池を入れ替え、内部を整えれば、再び歩み出せる。
大切なのは、「もうだめだ」と決めつけないことです。
分解には勇気がいります。ねじを外し、内部を開く。壊してしまうかもしれないという不安もある。しかし、開かなければ掃除もできません。
私たちもまた、自分の内面を見つめることを恐れます。
弱さや醜さを見るのが怖いからです。
しかし、見つめることなくして、整えることはできません。
掃除機は、再びお寺の清掃に貢献してくれるでしょう。
床のほこりを吸い、静かに働き続けるでしょう。
その姿は、私たちに教えてくれます。
「役目は、尽きたのではない。整えれば、また働ける」と。
人生も同じです。
疲れたなら休む。
弱ったなら整える。
汚れたなら洗い清める。
それでよいのです。
仏教は、特別な奇跡を説く教えではありません。
壊れたものを新品に変えるのではなく、いまあるものを大切に手入れし、活かす智慧を教えます。
掃除機の復活は、小さな出来事かもしれません。
しかしそこには、命の姿が映っています。
いただいたご縁を粗末にせず、手をかけ、整え、再び活かす。
それは、物に対する感謝であり、自分自身への慈しみでもあります。
どうぞ皆さまも、もし心の電池が弱っていると感じたなら、あきらめないでください。
少し休み、少し整え、少し掃除をする。
すると再び、あなたの中の力は静かに回り始めます。
お寺の掃除機が、今日もほこりを吸いながら働くように。
私たちもまた、この世の塵の中で、静かに、そして確かに、自分の役目を果たしていきたいものであります。

