無知だから調べた

出典は

バビロニア・タルムード

ババ・メツィア59b

■ まず物語を簡単に

ある日、ラビたちが

「この“釜”は清いか、汚れているか」

という法律問題を議論していました。

一人の優れた学者、

ラビ・エリエゼル

は「清い」と主張します。

しかし他の多くのラビは反対します。

議論はまとまりません。

そこでエリエゼルは言います。

「私が正しいなら、奇跡が起こるはずだ。」

すると、

・木が動く

・川が逆流する

・建物の壁が傾く

それでも皆は認めません。

最後に天から声が響きます。

「エリエゼルは正しい。」

しかし別のラビ、

ラビ・ヨシュア

が立ち上がり、こう言います。

「それは天にあるのではない。」

■ ここが一番大事

「それは天にあるのではない」とは、

もともと

トーラー

に書いてある言葉です。

タルムードはこう解釈します。

「律法はすでに神から人間に与えられた。

だから今は、人間が議論して決めるものだ。」

つまり、

天の声よりも

人間の話し合いが優先されたのです。

■ え? 神様の声より人間?

ここが驚くところです。

普通なら、

「神様がそう言うなら従いましょう」

となりそうです。

しかしラビたちは言います。

「法律は奇跡で決めない。」

なぜか。

■ なぜ奇跡を認めないのか?

もし奇跡で決めるなら、

・強い霊能力を持つ人が勝つ

・「神のお告げだ」と言う人が支配する

そうなってしまいます。

それでは、皆で律法を守る共同体は成り立ちません。

だから彼らは決めたのです。

法律は、理性と議論で決める。

■ 神様は怒らなかったの?

物語の最後にこうあります。

後日、預言者エリヤに

「神はどうしていたのか」

と聞いたところ、

神は笑ってこう言った。

「わたしの子らが、わたしに打ち勝った。」

つまり神は喜んでいた。

ここがとても深いところです。

■ この話が教えていること

とても簡単に言えば、こうです。

① 神は法を与えた

② しかし運用は人間に任せた

③ 奇跡よりも話し合いを尊重した

④ 責任は人間が負う

■ もっとかみ砕くと

これは

「神頼みではなく、

自分たちで考えなさい」

という教えです。

神は

「ちゃんと議論できるように

理性を与えた」

だから、

考えること自体が信仰なのです。

■ 仏教と少し重ねるなら

仏教にも

・自灯明(自らを灯とせよ)

・依法不依人(人に依らず法に依れ)

という教えがあります。

しかしこの物語はさらに一歩進み、

「法の解釈も人間に任されている」

と語ります。

■ つまり「天は人の手にある」とは

神がいなくなった、という意味ではありません。

そうではなく、

神が人間を信頼した

という物語なのです。

神は、

「あなたたちが話し合って決めなさい」

と言った。

そして人間が責任を引き受けた。

それを神は喜んだ。

■ タルムード的信仰とは

祈ることだけが信仰ではありません。

議論すること

学ぶこと

問い続けること

それ自体が神への奉仕なのです。


出典は、

アルガッダーマ・スッタ

(中部経典22)です。

■ 物語の内容

お釈迦さまは、修行者たちにこう語られました。

ある人が、広い川のこちら岸に立っている。

こちら岸は危険で、不安が多い。

向こう岸は安全で、安らかである。

しかし橋も船もない。

そこでその人は、

・木の枝

・草

・つる

を集めて筏を作り、必死に漕いで向こう岸へ渡る。

無事に渡り終えたあと、その人はどうするべきか?

筏を頭に乗せて持ち歩くべきだろうか。

それとも岸に置いていくべきだろうか。

お釈迦さまは言われます。

筏は渡るためのものであって、背負うためのものではない。

そしてこう結ばれます。

私の教えもまた筏のようなものである。

■ この話の基本的な意味

とても大切なポイントはここです。

教えは「目的」ではなく「手段」である。

川を渡るために筏を作る。

しかし渡ったあとまで持ち続ける必要はない。

同じように、

仏教の教えも

苦しみを超えるための道具であって、

執着する対象ではない。

■ こちら岸と向こう岸とは何か

こちら岸 = 苦しみの世界(煩悩・迷い) 向こう岸 = 解脱・涅槃

仏教では「到彼岸(とうひがん)」という言葉があります。

彼岸とは「向こう岸」のことです。

つまり筏とは、

八正道や戒律、修行法そのものです。

■ さらに深い意味

このたとえは、単に

「教えに執着するな」

というだけではありません。

実はもっと鋭い教えです。

お釈迦さまは、

正しい教えであっても、

それに固執すれば執着になる、

と示しているのです。

■ なぜここまで言うのか

人は、

・自分の信じる教え

・自分の正しさ

・自分の宗派

にしがみつきやすい。

するとそれが争いになります。

しかし筏のたとえは言います。

それは道具だ。

救いそのものではない。

■ さらに重要な点

この話の直前で、お釈迦さまは

「誤った教えを誤って理解する危険」

を語っています。

つまり、

・教えを誤解するのも問題

・正しく理解しても執着するのも問題

なのです。

ここに仏教の中道があります。

■ 住職の立場から重ねるなら

法話もまた筏です。

言葉は人を岸へ導くためのもの。

しかし言葉そのものに固執すれば、

かえって自由を失う。

禅でいう

「指月の譬え(指は月ではない)」

とも通じます。

■ 現代に当てはめると

・本

・資格

・理論

・肩書

これらも筏です。

役目を終えたら手放す勇気が必要です。

しかしここで誤解してはいけないのは、

「筏はいらない」という話ではないこと。

川を渡るには筏が必要です。

修行も、戒も、学びも、絶対に必要です。

ただし、

目的を忘れてはいけない。

■ 結論

筏のたとえはこう教えます。

① 教えは救いそのものではない

② 教えは苦しみを超える手段である

③ 正しい教えにも執着してはならない

④ 手放すこともまた修行である

とても静かな話ですが、

実は仏教の核心を突く、非常にラディカルな教えです。

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