
毎月十八日は、観音様のご縁日でございます。
この日には、多くのお寺で観音経が読まれ、静かに手を合わせる方々の姿が見られます。観音様は、声なき声を聞き、苦しみの中にある人々を救う慈悲の仏さまです。そのお姿として広く信仰されているのが、たとえば**十一面観音菩薩**であり、あらゆる方向にお顔を向け、私たちの迷いや嘆きを見守ってくださる存在であります。
しかし、観音様の日に私たちができることは、ただ手を合わせることだけではありません。
ほうきを持ち、雑巾をしぼり、壊れたお道具を修理する。誰にも気づかれない場所を整え、静かに汗を流す。そうした日々の行いこそ、観音様の御心にかなう尊い修行であると、私は思うのです。
仏教では「陰徳(いんとく)」という言葉がございます。
人知れず積む徳のことです。誰かにほめられるためでもなく、評価を得るためでもなく、ただ「よきことだから」行う善行。それはまるで土の中に種をまくようなものです。すぐには芽が出ません。花も咲きません。しかし、やがて見えないところで根を張り、ある日ふと、美しい花を咲かせるのです。
掃除も同じです。
本堂のすみ、廊下の板目、仏具のほこり。黙って拭き上げると、不思議と自分の心の曇りまで取れていくように感じられます。
これは単なる作業ではありません。心を磨く行であります。
ある方が、こうおっしゃいました。
「住職、掃除をしても誰も気づいてくれません」と。
私はそのとき、こうお答えしました。
「観音様がご覧になっていますよ」と。
観音様は、派手な功績よりも、静かな真心を喜ばれる仏さまです。大きな寄進よりも、小さな思いやり。立派な言葉よりも、黙って整える手。そこにこそ慈悲が宿るのです。
また、お道具の修理も大切な行であります。
壊れたものを捨てるのではなく、直して使う。ほころびを縫い合わせる。欠けた部分を補う。それは、ものを大切にする心であり、同時に「ご縁を大切にする心」でもあります。
私たちの人生もまた、傷つき、欠けることがあります。
思い通りにならぬ日もあれば、失敗を重ねることもあります。しかし、そのたびに投げ出すのではなく、少しずつ修復し、手当てをしながら生きていく。その姿勢こそ、観音様の教えに通じるものではないでしょうか。
徳を積むというのは、貯金のようなものではありません。
「これだけやったから、これだけ返ってくる」という計算ではないのです。むしろ、徳とは「心の体質」をつくるものです。日々、善き行いを重ねることで、私たちの心はやわらかく、あたたかくなっていきます。
たとえば、誰も見ていないところでゴミを拾う人は、やがて人の悲しみにも自然と気づくようになります。道具を丁寧に扱う人は、人の心も丁寧に扱えるようになります。陰徳とは、未来の自分を育てる営みなのです。
十八日という日は、その確認の日でありたいと思います。
「今月も私は、見えないところで善き種をまいただろうか」
「誰かのために、そっと手を差し伸べただろうか」
観音様は、私たちの声を聞くだけでなく、私たちの行いを通してこの世に働かれます。
私たちが掃除をするとき、観音様の手となる。
私たちが修理をするとき、観音様の慈悲が形となる。
ある古いお寺での話です。
長年、毎月十八日に欠かさず境内を掃き続けた一人の老婦人がおられました。誰も気に留めませんでしたが、ある日その方が病に伏されたとき、多くの人が自然とお見舞いに訪れました。
なぜでしょうか。
その方の積んだ陰徳が、周囲の人々の心を静かにあたためていたからです。
徳とは、目に見えない香りのようなものです。
言葉にしなくても、態度にあらわれます。
作為なく、誇りなく、ただ続ける。その姿は、観音様の慈悲の香りそのものです。
どうか、毎月十八日を特別な一日にいたしましょう。
大きなことをする必要はありません。
ほんの十五分でもよいのです。
ほうきを持ち、雑巾を持ち、壊れたものを直す。
そして心の中で、こう唱えてみてください。
「観音様、どうか私の手をお使いください」
その一念が、尊いのです。
陰徳は、誰にも知られなくてよいのです。
けれども、その積み重ねは、必ず自分自身を救います。
怒りが減り、焦りが減り、人を責める心がやわらいでいきます。
気がつけば、日常そのものが修行の場となるのです。
十八日は、観音様の日。
慈悲を学ぶ日であり、慈悲を実践する日。
静かに徳を積む日。
どうぞ、今日も一つ、見えない善を重ねてまいりましょう。
その小さな一歩が、やがて大きな光となって、あなた自身を照らすのです。
南無観世音菩薩。
