
徳を積むという言葉を聞きますと、どこか昔話のように感じる方もおられるかもしれません。けれども本来、「徳を積む」ということは、特別な修行や立派な行いを指すのではありません。日々の暮らしの中で、心を整え、人を思いやる、その一つひとつの積み重ねのことなのです。
仏教では、行いは必ず自分に返ってくると説きます。これは罰やご褒美の話ではありません。種をまけば芽が出るように、原因があれば結果があるという、自然の道理です。これを因果の道理と申します。親切の種をまけば、やがて安心という花が咲きます。怒りの種をまけば、不安や孤独の実がなります。
徳とは、目に見えないけれど、確かに自分の内側に蓄えられていく力です。貯金のように通帳には記されませんが、心の器に少しずつ満ちていくものです。
お釈迦さまは、「善い行いを軽んじてはならない。水滴も積もれば大きな水瓶を満たす」と教えられました。小さな水滴が落ち続ければ、やがて器はいっぱいになります。同じように、小さな善い行いも、積み重ねれば人生を支える大きな力となるのです。
ある人が、こんなことを言いました。「私は大したことはしていません。徳など積んだ覚えはありません」と。しかしその方は、毎朝近所のごみを拾い、誰かが困っていればさりげなく手を差し伸べ、家族に「ありがとう」と声をかけておられました。それこそが徳なのです。
徳は、人に見せるためのものではありません。人に評価されるためのものでもありません。むしろ、誰も見ていないところで、どれだけ誠実でいられるか。そこに徳は育ちます。
「どうせ誰も見ていない」と思う時こそ、自分自身が見ています。自分の心は、自分の行いをすべて知っています。人をごまかすことはできても、自分の心はごまかせません。
徳を積むということは、自分の心を裏切らないということです。
たとえば、腹が立った時に一呼吸おく。嫌な言葉を飲み込む。困っている人を見かけたら足を止める。それは誰にでもできる小さな修行です。
仏教には「布施」という教えがあります。布施とは、お金や物を与えることだけではありません。やさしい言葉をかけることも布施です。安心を与えることも布施です。微笑みも布施です。
今日一日、何回「ありがとう」と言えたでしょうか。何回、相手の話を最後まで聞けたでしょうか。その一回一回が、心の徳となって積まれていきます。
徳を積むと、不思議なことが起こります。外の世界が変わるというよりも、自分の心の受け取り方が変わります。以前なら腹が立っていたことに、少し余裕が生まれる。以前なら不安だったことに、静かな信頼が芽生える。
徳とは、幸せを呼び込む魔法ではありません。むしろ、幸せに気づく心を育てる営みなのです。
私たちは、結果ばかりを求めがちです。すぐに成果がほしい。すぐに報われたい。しかし徳は、すぐには見えません。だからこそ尊いのです。
木を育てるようなものです。今日水をやったからといって、明日すぐに大木になるわけではありません。しかし水をやらなければ、確実に枯れてしまいます。
徳を積むとは、水をやり続けることです。
また、徳は自分だけのものではありません。あなたの徳は、家族を支え、地域を温め、次の世代へとつながっていきます。
あるご高齢の方が、「私はもう年だから」とおっしゃいました。しかしその方が若い人にかけた一言の励ましが、その若者の人生を支えました。その言葉は、やがてまた別の人へと受け渡されていきます。徳は静かに、しかし確かに広がっていくのです。
反対に、怒りや愚痴もまた積もります。悪い意味での徳もあるのです。愚痴を重ねれば、愚痴の器が大きくなります。怒りを重ねれば、怒りの器が育ちます。
だからこそ、どんな一日を積み重ねるかが大切です。
今日一日を振り返ってみてください。完璧でなくてよいのです。失敗してもよいのです。ただ、「ああ、あの時もう少し優しくできたな」と気づけたなら、それもまた徳の芽生えです。気づきは、次の善い行いの種になります。
徳を積むとは、立派になることではありません。柔らかくなることです。強くなることではなく、深くなることです。
やがて人生の終わりに近づいたとき、私たちの手元に残るのは、お金でも肩書きでもありません。「ああ、よく生きた」と思える静かな安心です。その安心こそ、積み重ねた徳の実りではないでしょうか。
今日もまた、小さな水滴を一つ落としましょう。
誰かにやさしい言葉をかける。
一度、深呼吸をする。
空を見上げて感謝する。
その一つひとつが、あなたの心を満たし、未来を照らします。
徳は、特別な人のものではありません。
今、この瞬間から、誰でも積むことができるのです。
どうか今日一日を、徳の種まきの日としてお過ごしください。
その静かな積み重ねが、やがて大きな安心となって、あなたの人生を支えてくれることでしょう。
