恐れるのは、守りたいものがあるから

私たちは日々、さまざまな「恐れ」を抱きながら生きています。
病気になるのが怖い。
老いるのが怖い。
失敗するのが怖い。
人から嫌われるのが怖い。
大切な人を失うのが怖い。
こうして並べてみると、恐れのない一日など、ほとんどないのかもしれません。
仏さまは、こうした人の心を見つめながら、静かに問いかけられました。
「なぜ、人は恐れるのか」と。
その答えの一つが、今日の題である
「恐れるのは、守りたいものがあるから」
という言葉です。
恐れは弱さではない
まず最初にお伝えしたいことがあります。
恐れる心は、決して「弱さ」ではありません。
むしろ、恐れはとても人間らしい心です。
なぜなら、そこには必ず「大切にしているもの」があるからです。
たとえば、子どもを持つ親は、事故や病気を恐れます。
それは、子どもが大切だからです。
仕事の失敗を恐れるのは、
今まで積み重ねてきた努力や信頼を守りたいからです。
老いを恐れるのは、
今の自分であり続けたい、尊厳を失いたくないという思いがあるからです。
恐れの裏側には、
愛情、努力、誇り、執着、願い
そうしたものが、必ず隠れています。
仏教では、これを「執着(しゅうちゃく)」と呼びます。
守りたいものが生む苦しみ
執着という言葉は、少し冷たい響きがありますが、
決して悪い意味だけではありません。
執着とは、
「これがなければ困る」
「失いたくない」
「変わってほしくない」
そう願う心のことです。
しかし、お釈迦さまは言われました。
**「執着は、やがて苦しみを生む」**と。
なぜなら、この世のものはすべて、
移ろい、変わり、やがて失われるからです。
どんなに健康な体も、必ず老います。
どんなに大切な人も、いつか別れが来ます。
どんなに安定した立場も、永遠ではありません。
それを頭ではわかっていても、
心が「いやだ」「失いたくない」と抵抗する。
その抵抗が、恐れとなり、不安となり、苦しみとなって現れるのです。
恐れをなくそうとしなくていい
ここで、よくある誤解があります。
「修行をすれば恐れがなくなる」
「悟れば不安を感じなくなる」
しかし、仏教はそのような教えではありません。
恐れを無理に消そうとしなくていいのです。
恐れを感じてはいけない、と思わなくていいのです。
大切なのは、
「私は今、何を守ろうとしているのか」
と、静かに自分の心を見つめることです。
恐れが生じたとき、
「ダメだ、弱い心だ」と責めるのではなく、
「私はこれを大切にしているんだな」
と、そっと気づいてあげること。
それだけで、心は少し緩みます。
守れないものを、抱きしめている私たち
私たちは、守れないものを、
必死に守ろうとして生きています。
変わり続ける体を、
変わらないように保とうとし、
移ろう人の心を、
つなぎとめようとし、
不確かな未来を、
確実にしようとします。
それは、とても自然なことです。
けれど、そこに無理が生じると、
恐れはどんどん大きくなっていきます。
仏さまは、こうした私たちに、
「手放しなさい」と厳しく言われたのではありません。
そうではなく、
「そもそも、永遠に守れるものはない」
という真実を、静かに示されたのです。
手放すとは、諦めることではない
「手放す」と聞くと、
「どうでもよくなること」
「冷たくなること」
と思われがちです。
しかし、仏教でいう手放しとは、
投げやりになることではありません。
むしろ、
「今、ここにあるご縁を、丁寧に生きる」
ということです。
明日失うかもしれないからこそ、
今日の出会いを大切にする。
いつか終わるからこそ、
今の時間を味わう。
永遠に守れないと知ることで、
今を深く生きることができるのです。
恐れが教えてくれるもの
恐れは、敵ではありません。
恐れは、あなたの心からの手紙です。
「これは大切ですよ」
「ここに愛がありますよ」
「あなたは、真剣に生きていますよ」
そう教えてくれているのです。
だから、恐れを感じたときは、
こう問いかけてみてください。
「私は、何を守りたいのだろう」
「そこに、どんな願いがあるのだろう」
その問いは、
自分自身を知る入り口になります。
最後に
恐れるのは、守りたいものがあるから。
それは、私たちが冷たい存在ではなく、
思いを持ち、願いを持ち、生きている証です。
恐れを抱えながら生きる私たちは、
未熟で、揺れ動き、思い通りにならない存在です。
しかし、だからこそ、
仏の教えは、私たちに寄り添います。
恐れを消そうとせず、
恐れを否定せず、
ただ、その奥にある「大切さ」に気づきながら、
今日一日を、丁寧に生きてまいりましょう。
それが、
恐れと共に生きる、仏道の一歩なのです。

