
禅というものには、人それぞれに「今、この瞬間を感じ取るための領域」があるのではないか、私はそのように思うことがあります。同じ坐禅をしていても、感じること、見えてくるもの、向き合う課題は人によって異なります。それは決して優劣ではなく、その人が今立っている場所、その人の歩んできた道のりに応じた、自然な違いなのだと思います。
この禅のあり方を、ひとつ「机」にたとえて考えてみましょう。
現代ではノートパソコンを使う人が増えましたが、そのノートパソコンも、多くの場合は机の上に置いて使います。机の上では、書類を書いたり、本を読んだり、勉強をしたり、ノートを広げたりと、実にさまざまなことができます。机があることで、私たちは「今、ここで取り組む」という姿勢を自然に整えることができます。
もちろん、机があれば何でもうまくいく、というわけではありません。机があっても、ただの荷物置き場になってしまっている方もおられるでしょう。しかし、それでも机というものは、本来「集中するための場」を与えてくれる存在です。机に向かうことで、心が仕事や学びに向かって整っていく。そのような力を、机は静かに持っています。
坐禅も、これとよく似ています。
坐禅とは、何か特別なことをする行為ではありません。ただ「座る」。それだけです。しかし、その「ただ座る」という行為が、自分自身と向き合うための場をつくってくれます。坐禅という机に向かうことで、私たちは自分の内側にある課題、悩み、迷いと、正面から出会うことになります。
座っていると、心の中にさまざまな思いが浮かんできます。「なぜ、これが自分にとって障壁になっているのだろうか」「この壁は、どこから生まれてきたのだろうか」「乗り越える方法はあるのだろうか」「それとも、今は退くべきなのだろうか」。坐禅は、そうした問いを無理に消す場ではありません。むしろ、よく見つめる場です。
そして、坐禅の時間が終わり、立ち上がったら、今度は現実の中で実際に行動してみます。考えたことを試してみる。工夫してみる。挑戦してみる。それを一度きりで終わらせず、しばらく続けてみる。そうすると、やがて「結果」という形で、ひとつの答えが現れてきます。
その結果を、もう一度よく見つめます。自分なりに全力で努力してみた結果、うまくいったならば、坐禅の中で考えたことは、その時点では正しかったのでしょう。もし、うまくいかなかったとしても、それは「失敗」ではありません。考えを超えた、何らかの理由がそこに隠れているということです。
その理由が少しずつ見えてくると、「では、どうするか」という問いが自然に生まれます。やめるべきなのか、続けるべきなのか。続けるならば、どのような工夫が必要なのか。これらは、無理に頭をひねって考え出すものではありません。坐禅と行動を重ねていく中で、自然と心が答えを探し始めてくれます。
それでも、どうしても考えが浮かんでこない時もあります。そのような時は、決して自分を責める必要はありません。多くの場合、それは能力不足ではなく、単に「情報が足りていない」だけなのです。その場合は、書籍で調べてみるのもよいでしょう。インターネットで調べるのもよいでしょう。現代では、AIという新しい存在が、良き友として相談に乗ってくれることもあります。助けを借りることは、禅に反することではありません。
ここで、学びの積み重ねとして、数学の学習を例に考えてみましょう。
数学は、突然難しいことを学ぶ学問ではありません。最初は算数から始まります。足し算、引き算、掛け算、割り算。この基礎を、時間をかけて十分に納得することで、しっかりとした土台ができます。その上に、分数、面積、立体、平均、比、グラフといった内容が積み重なっていきます。
さらに中学校では、負の数、連立方程式、一次関数、確率、平方根、二次関数と、少しずつ抽象的な世界へ進んでいきます。高校では、さらにその上の内容を学びます。どれも順序立てて積み重ねていくことで、初めて理解できるものです。途中を飛ばしてしまえば、どこかで必ずつまずきます。
だからこそ、学びには「自分の知識の状態に合わせて、ゆっくり進む」ことが大切なのです。急いで先に進むよりも、ゆっくり始めて、長く続けること。その方が、結果として深い理解につながります。
禅も、まったく同じです。
禅には、他人と比べるための基準はありません。人それぞれに、その人に合った領域があります。自分が坐って感じていることが、今の自分にとっての真実です。隣の人が語る体験や気づきに驚くことがあっても、「自分はまだそこに達していない」と落ち込む必要はありません。それは、数学で言えば、まだ掛け算を学んでいる段階の人が、二次関数の話を聞いて戸惑うのと同じことです。
理解に至っていないからといって、希望を失う必要はありませんし、途中でやめてしまうのは、とてももったいないことです。坐禅という机に、今日も静かに向かい、今の自分にできるところから続けていく。その積み重ねが、やがて自分自身の確かな道となって現れてくるのです。
禅は、特別な人のためのものではありません。今を生きる一人ひとりが、自分の歩幅で進んでいくための、静かな支えなのだと思います。

