菩提心をたずね、今日を生きる
私たちは日々、さまざまな役目を担って暮らしています。家庭では食事を作る人、片づけをする人、働いて家を支える人がいます。職場にも、目立つ役目もあれば、誰にも気づかれにくい役目もあります。寺院においても同じです。それぞれの役を通して、多くの人が支え合い、一日の営みが成り立っています。
道元禅師は『典座教訓』という書物を残されました。典座とは、修行僧の食事を整える役目です。一見すれば、料理を作り、食材を管理する役目に見えるかもしれません。しかし道元禅師は、典座の仕事を、単なる炊事の仕事とは考えませんでした。食事をいただく修行僧を、仏さまに供養するのと同じ心で大切にすること。それが典座の務めであると示されたのです。
食べる人を、ただ「お腹を空かせた人」として扱うのではありません。同じ仏道を歩む尊い仲間として受け止め、その人が安心して修行できるように心を配る。そこには、相手のために何ができるかを考える、深い思いやりがあります。
『典座教訓』には、大衆が安楽に過ごせるよう、時に応じて工夫しなさいという趣旨の言葉があります。昔の言葉ではありますが、私たちの日常にもそのまま通じる教えです。家族が疲れている時に、いつもより静かに声をかける。職場で困っている人に気づいたら、少し手を貸す。地域の中で孤立している人がいれば、挨拶をしてみる。目配り、気配り、心配りは、特別な修行の場だけで必要なものではありません。私たちの目の前にいる人を安らかにする行いそのものが、仏道の実践となります。
けれども、ここで大切なのは、どれほど忙しく働いていても、ただ疲れ果てるだけでは十分ではないということです。道元禅師は、その根に菩提心がなければならないと教えられます。菩提心とは、悟りを求める心であり、仏の道を歩もうとする願いです。自分だけの利益や評判のためではなく、迷いを離れ、他者とともによりよく生きようとする心です。
しかし、「私には菩提心があります」と、胸を張って言える人は多くないかもしれません。自分のためばかりに動いてしまう。人と比べて落ち込む。親切にしたつもりでも、感謝されなければ腹が立つ。そのような自分に気づくことがあります。けれども、そこで「私は駄目だ」と決めつける必要はありません。
道元禅師は、最初から菩提心を十分に持っている人ばかりではない、と見ておられます。正しい仏道を好み、少しずつ学び、実践を続けるならば、やがて真の菩提心も起こってくる、と教えられます。霧の中を歩いていると、歩いている本人はすぐには気づかなくても、いつの間にか衣が湿っているようなものです。坐禅をすること、手を合わせること、食事を粗末にしないこと、人に丁寧に接すること。その積み重ねのなかで、私たちの心は少しずつ育てられていきます。
また、道元禅師は無常を深く見つめることを大切にされました。私たちの命は、明日も必ず続くとは限りません。だからこそ、いつかやろう、余裕ができたら始めようと思っているだけではなく、今日という日を大切に生きるのです。無常を思うことは、暗い気持ちになるためではありません。今ここにあるご縁、目の前の人、いただく食事、呼吸できる時間が、かけがえのないものであると知るためです。
仏道の歩みに、ここまで来たら終わりという地点はありません。発心、修行、悟り、安らぎは、順番に一度きり起こるものではなく、いつも新たに確かめ直していくものです。「私はもう分かった」と思う時にも、あらためて問い直す。「私は今、何を大切にしているだろうか」「目の前の人を本当に尊んでいるだろうか」と問い続ける。その問いを失わないことが、菩提心を求め続けることなのでしょう。
今日一日、すべてを立派に行えなくてもかまいません。食事の前に感謝する。履物をそろえる。相手の話を最後まで聴く。使った場所を整える。その小さな行いに、仏さまの教えを生かしてまいりましょう。自分のためだけでなく、誰かが少しでも安心して過ごせるように心を配る時、私たちはすでに仏道を歩んでいます。
菩提心とは、遠くにある特別な心ではありません。今日を粗末にせず、目の前の命を大切にし、よりよく生きようと願う心です。その心を何度でもたずねながら、一歩一歩、ともに歩んでまいりましょう。
合掌
