
「タイヤ交換と典座教訓 ― 手を動かすことが仏道となる」
先日、私はオートバイのタイヤを自分で交換しました。
バイク店へ持ち込めば、お金を払うだけで短時間に終わる作業です。近頃は、何でも専門家が代わりに行ってくれます。便利な時代になりました。
しかし、今回は自分の手でやってみようと思いました。
タイヤを外し、ビードを落とし、レバーで少しずつ古いタイヤを外していきます。新しいタイヤを組み込み、チューブを傷つけないよう慎重に確認し、空気を入れてビードを均等に上げていく。最後にはホイールバランスも確認し、車体へ取り付けました。
決して簡単な作業ではありません。
途中で何度も「やはりお店へ頼めばよかったかな」と思う瞬間もありました。しかし、一つひとつの工程を終え、無事に交換が完了した時、何とも言えない充実感が心に広がりました。
「自分でやった。」
その喜びは、単にタイヤが新しくなったこと以上の価値がありました。
この経験を通して、私は道元禅師の『典座教訓』を思い出しました。
道元禅師が中国・宋で修行されていた頃、一人の年老いた典座と出会われます。
典座とは、修行僧の食事を司る役目です。
炎天下の港で、日本から来た若い僧である道元は、一人の老僧が自らしいたけを干している姿を見ました。
道元は、その年齢を気遣い、「そのような仕事は若い僧に任せればよいのではありませんか」と尋ねます。
すると老典座は穏やかに微笑みながら答えました。
「他の者にさせたのでは、自分の修行にならぬ。」
さらに、
「今この一瞬をおろそかにして、いつ仏道を修めるのか。」
そう語られたのです。
この言葉は、道元禅師の心を大きく揺さぶりました。
禅とは、特別な場所で座禅を組む時だけのものではない。
包丁を持つことも、米を研ぐことも、鍋を洗うことも、薪を割ることも、すべてが仏道なのである。
その教えをまとめられたものが『典座教訓』です。
私たちは、「修行」と聞くと、静かな本堂で座禅を組み、お経を唱える姿を思い浮かべます。
もちろん、それも尊い修行です。
しかし道元禅師は、それだけではないことを教えてくださいました。
掃除をすること。
洗濯をすること。
庭の草を抜くこと。
食事を作ること。
そして、オートバイのタイヤを交換すること。
それらもまた、心を込めて行えば、すべて修行となるのです。
なぜでしょうか。
それは、手を動かす時、私たちは自然と「今」に生きるからです。
タイヤレバーを入れる角度を間違えればチューブを傷つけます。
ナットを締める力を誤れば事故につながります。
空気圧を確認しなければ、安全に走ることはできません。
過去を悔やんでいても作業は進みません。
未来の心配ばかりしていても手元がおろそかになります。
目の前の一本のボルト、一回のレンチの動きに心を向けるしかありません。
これこそ禅の世界です。
禅では「只管打坐(しかんたざ)」と言います。
ただひたすら座る。
しかし、その精神は座禅堂だけではありません。
ただひたすら料理をする。
ただひたすら掃除をする。
ただひたすら畑を耕す。
ただひたすらタイヤを交換する。
どれも「只管」の姿なのです。
私たちは効率を求める時代に生きています。
早く。
安く。
楽に。
便利に。
もちろん、それらは悪いことではありません。
しかし、便利になるほど、自分の手を使う機会が少なくなります。
手を使わなくなると、心まで動かさなくなってしまうことがあります。
自分で包丁を握る。
自分で雑巾を絞る。
自分で庭木を剪定する。
自分で修理する。
そこには失敗もあります。
時間もかかります。
思い通りにならないこともあります。
しかし、その時間こそが自分を育ててくれる時間なのです。
老典座は、誰かに仕事を押し付けなかったのではありません。
自分が成長する機会を、自ら手放さなかったのです。
「他の者にさせたのでは、自分の修行にならぬ。」
この言葉は、現代を生きる私たちにも深く響きます。
家族がいるなら、自分で茶碗を洗ってみる。
職場では、自分の机を丁寧に整える。
地域では、自分から掃除をする。
誰かがやるだろうではなく、自分がやる。
その積み重ねが人格を育て、心を磨いていくのです。
私がタイヤ交換を終えた後、試運転をしました。
新しいタイヤは静かに路面をとらえ、安心して走ることができました。
しかし、本当に新しくなったのはタイヤだけではありません。
作業を終えた自分の心もまた、少し新しくなっていました。
手間を惜しまなかった時間。
失敗しながら学んだ経験。
最後までやり遂げた喜び。
それらは、お金では買えない財産でした。
道元禅師は、特別なことをしなさいとは教えておられません。
今ある仕事を、今ある場所で、心を尽くして行いなさいと教えてくださっています。
今日の食事づくりも、庭掃除も、仕事も、趣味も、誰かのために尽くすことも、その一つひとつが仏道です。
私たちは毎日、仏道の中を歩いています。
その道は遠くの山の上にはありません。
足元にあります。
手の中にあります。
今、この瞬間の暮らしの中にあります。
だからこそ今日も、一つの仕事を丁寧に、一つの道具を大切に、一つの出会いに感謝しながら生きてまいりたいものです。
その積み重ねが、やがて私たち自身を磨き、仏さまの心へと近づく歩みとなるのでしょう。


コメント
あら、書けるのね。