
月に一度の夜坐
一カ月に一度、夜に坐る。
それは、修行というよりも、
人生の楽しさを味わうための、ひとときです。
昼の喧騒が遠のき、
一日の役目を終えたあと、
静かな場所に集まり、
灯りを少し落として、壁に向かって坐る。
誰かと比べることもなく、
成果を競うこともなく、
ただ、今の自分として、そこに坐る。
夜坐には、
昼間の坐禅とは違う
やさしい深さがあります。
壁に向かう、ということ
坐禅では、壁に向かいます。
何も書かれていない壁。
答えも、評価も、
慰めの言葉もない壁。
けれど、その壁は、
私たちに多くのことを映し返します。
目を閉じれば、
一カ月の出来事が、
静かに浮かんできます。
よく笑った日。
少し疲れた日。
うまくいったこと。
後悔の残ること。
壁は、
「それでいい」とも
「まだ足りない」とも言いません。
ただ、
そのままを受け止めている
それだけです。
人生を振り返る、やさしい時間
夜坐は、
反省会ではありません。
「できなかった自分」を
責める場ではなく、
「よくやった自分」を
誇る場でもありません。
一カ月を振り返り、
もし、
「充実していたな」
そう思えたなら、
それでよし。
忙しい中でも、
誰かと笑い、
誰かを思い、
今日まで歩いてきた。
それだけで、
人生は十分に
味わわれています。
「そうでもない一カ月」も、よし
一方で、
振り返ってみて、
「特に何もなかった」
「うまくいかなかった」
そう感じることもあります。
けれど、夜坐では、
それも、よしとします。
仏教では、
人生に無駄な時間はない
と説きます。
立ち止まった日も、
迷った日も、
疲れて何もできなかった日も、
すべてが、
生きていた証です。
壁に向かい、
「そうでもなかったな」
そう思いながら坐ることも、
立派な坐禅です。
たとえ話① 夜の湖
夜の湖は、
昼のように輝きません。
けれど、
静かな水面には、
月が映ります。
波立たせなければ、
湖は自然と、
空をそのまま映し出します。
夜坐も、同じです。
一カ月の出来事を、
評価せず、
揺らさず、
ただ坐る。
すると、
人生の姿が、
そのまま心に映ってきます。
坐るだけで、洗われる
坐禅には、
不思議な力があります。
何かを解決しなくても、
答えが出なくても、
ただ坐ることで、
心が少し軽くなる。
それは、
心が「整えられた」のではなく、
余分なものが、静かに落ちた
からかもしれません。
夜坐は、
心を洗う時間です。
洗うといっても、
強くこするのではありません。
ぬるま湯に浸すように、
そっと、やさしく。
坐禅のあとに、お茶をいただく
坐禅が終わると、
場の空気は、
どこか澄んでいます。
その中で、
お茶をいただく。
湯気の立つ湯のみ。
ほのかな香り。
一口ごとに、
体がゆるんでいきます。
ここから、
茶話会が始まります。

たとえ話② 澄んだ器
坐禅を終えた心は、
よく洗われた器のようです。
そこに注がれる言葉は、
濁らず、
そのまま受け止められます。
だからこそ、
安心して話せるのです。
うまく言えなくてもいい。
まとまっていなくてもいい。
心のままに浮かんだことを、
言葉にする。
話すことも、坐ること
禅では、
沈黙だけが尊いのではありません。
坐って洗われた心から出る言葉は、
それ自体が、
もう一つの坐禅です。
誰かが話し、
誰かが聴く。
途中で口を挟まず、
結論を急がず、
ただ、受け止める。
禅で洗われた皆の心は、
人の言葉を、
そのまま包みます。
たとえ話③ 焚き火を囲む夜
夜、焚き火を囲むと、
人は自然と、
静かな話をします。
火を大きくしようとしなくても、
ただ、そこにある炎が、
場をあたためます。
夜坐と茶話会も、
それと同じです。
誰かを変えようとせず、
自分をよく見せようとせず、
ただ、共に在る。
その時間こそが、
人生の深い楽しみです。
楽しさとは、にぎやかさではない
人生の楽しさは、
笑い声の大きさや、
出来事の派手さだけではありません。
静かに振り返り、
静かに坐り、
静かに語り合う。
その中で、
「ああ、生きているな」
そう感じられること。
それが、
大人になってから出会う
もう一つの楽しさです。
結びに
一カ月に一度の夜坐は、
人生を評価する時間ではありません。
人生を、
味わい直す時間です。
充実していたなら、満足でよし。
そうでもなかったなら、それもよし。
壁に向かい、
ただ坐り、
そのあと、お茶を飲み、
言葉を分かち合う。
その積み重ねが、
人生を、
静かに、豊かにしていきます。
どうぞ次の夜坐も、
がんばらず、
飾らず、
そのままのあなたで
お越しください。
坐ることも、
語ることも、
すべてが、
あなたの人生そのものなのです。

