坐禅の極意 ― 感情を眺めることの智慧
坐禅とは何でしょうか。多くの人は「坐禅=雑念を消す」「何も考えない状態になること」とイメージします。しかし実際の坐禅の本質は「雑念を消すこと」ではありません。むしろ、心に浮かんでくる思いや感情を追い払わず、そのまま眺め、受け止め、やがて手放していくことにあります。
「自分の感情を他人に見せるように眺める。湧き上がる思いや感情を一切否定せず、判断せず、ありのままに感情に寄り添う。」
この言葉は、まさに坐禅の極意を言い表しています。
私たちは日常生活の中で、常に「感じ」「考え」「判断」し続けています。誰かの言葉に喜びを覚え、また別の出来事に怒りを感じ、時には自分の過ちに対して恥ずかしさや後悔を募らせる。感情は、波のように絶え間なく生じては消えていきます。ところが、多くの人はその感情を「私のもの」と強く握りしめてしまいます。「私は怒っている」「私は悲しい」「私は惨めだ」と、自分と感情を一体化してしまうのです。その結果、感情が消え去るよりも早く、私たちはその感情の奴隷となり、翻弄されてしまいます。

坐禅が教えてくれるのは、その逆の態度です。つまり、自分の感情を「私のもの」と握りしめるのではなく、あたかも他人が演じている劇を観客として眺めるように、距離を置いて見守る態度です。ここには否定も判断もありません。ただ「いま怒りが湧いているな」「悲しみが生まれているな」「不安が心に広がっているな」と、そのまま受け止めるのです。
感情を否定せず、ただ眺めるということ
私たちは感情に出会ったとき、二つの極端に陥りがちです。
ひとつは、感情を過度に抑え込むこと。「怒ってはいけない」「悲しんではいけない」「弱音を吐いてはいけない」と、自分を戒め、感情に蓋をしてしまう。もうひとつは、感情に振り回され、むき出しに表現しすぎてしまうこと。どちらも、心にとって健全ではありません。抑圧はやがて爆発を生み、暴走は自他を傷つけます。
坐禅においては、そのどちらにも偏りません。感情を否定しない、抑え込まない。しかし同時に、その感情に溺れもしない。まさに「中道」の実践です。
坐っていると、驚くほど多様な思いが浮かんできます。過去の出来事を後悔する気持ち、未来への不安、誰かへの怒りや嫉妬、自分自身への苛立ち。それらを「ダメだ」と裁かず、また「正しい」とも決めつけず、ただ「浮かんできた心の現象」として観察する。これが「眺める」という行為です。
仏教で説かれる「無常」「無我」の教えは、この観察の中に直接体験されます。感情は永遠に続かず、必ずやがて消えていきます。そして、感情は「私」そのものではなく、ただ一時的に心を通り過ぎる現象にすぎません。この気づきこそ、坐禅が私たちに与えてくれる最大の智慧です。
坐禅は心の実験室
坐禅をひとつの「心の実験室」と考えてみましょう。坐蒲に腰を下ろし、姿勢を整え、静かに呼吸を見守っていると、やがて心の奥底から様々な思いが立ち上がってきます。普段は忙しさや刺激の中にかき消されて気づかない心の動きが、静けさの中で明らかになるのです。
ここで私たちが行うことはただ一つ。「観察する」こと。湧き上がる感情に「良し悪し」を貼り付けず、まるで顕微鏡で心を覗くように眺めるのです。すると、自分の心がどのようにして怒りを生み、どうやって不安を膨らませ、どのように喜びを育むのか、そのプロセスが少しずつ見えてきます。
例えば、「あの人に酷いことを言われた」という記憶が浮かんできたとします。すると、心はその記憶を繰り返し再生し、怒りを増幅させます。しかし、坐禅中にそれを眺めていると、怒りは思考とともに大きくなり、やがて疲れて消えていく。その一部始終を目撃することで、「怒りとは固定されたものではなく、条件によって生まれ、やがて消えるものだ」という理解が自然に育っていきます。
これは頭で学ぶ教えではなく、体験を通して得られる気づきです。だからこそ、坐禅は「生きた智慧」を育むのです。
感情に寄り添うことの慈悲
「寄り添う」とは、ただ黙ってそばにいてあげることです。友人が悲しみに沈んでいるとき、私たちは無理に慰めの言葉をかける必要はありません。ただ静かに隣に座り、共に涙を流す。それが本当の寄り添いです。
同じことを、自分の感情にもしてあげるのです。怒りや不安、悲しみが湧いてきたとき、「そんな感情を持ってはいけない」と否定せず、「私は弱い」と判断せず、ただ「いま、ここにこの感情がある」と受け止め、寄り添う。その態度は、自分自身への深い慈悲の実践です。
坐禅を通じて自分に寄り添うことができれば、他者に対しても同じように寄り添えるようになります。なぜなら、他人の怒りや悲しみを目にしたとき、「それは人間に自然に湧き上がるものだ」と理解できるからです。自分の感情を受け入れられる人だけが、他人の感情にも真正面から寄り添えるのです。
日常に活かす坐禅の極意
坐禅で学んだ感情との付き合い方は、日常生活にも大きな影響を与えます。
仕事で理不尽な言葉を受けたとき、即座に反応して言い返すのではなく、「怒りが生まれた」と眺めることができれば、その怒りに振り回されず、より冷静に対応できます。家庭で不安や苛立ちが募ったときも、「これはただの感情の波」と理解できれば、波が静まるまで待つ余裕が生まれます。
つまり、坐禅は単に座っている時間だけの修行ではなく、生き方そのものを変える道なのです。
結びに
「自分の感情を他人に見せるように眺める。湧き上がる思いや感情を一切否定せず、判断せず、ありのままに感情に寄り添う。」
この実践は、私たちを感情の奴隷から解放し、自由にします。そして、その自由は決して冷たさや無関心ではなく、自己への慈しみ、他者への慈しみへと繋がっていきます。
坐禅とは、心の波を無理に鎮めるものではなく、波の性質を理解し、波と共にある智慧を養う道です。否定も判断もなく、ただありのままに寄り添うこと。それこそが、坐禅の極意なのです

