秋彼岸の法話
――カメラの思い出から、先祖への感謝と智慧を考える――
皆さま、本日は秋のお彼岸にあたり、こうしてお集まりいただき心より感謝申し上げます。
お彼岸と申しますと、「彼の岸に渡る」と書きます。迷いや苦しみの多いこの世、つまり「此岸(しがん)」から、仏さまの智慧と慈悲の世界である「彼岸」へと渡っていく。その道を歩むために、私たちは年に二度、春と秋にこの期間を設けて、自分の心を整え、ご先祖に感謝し、日々の歩みを振り返ってまいりました。
さて、今日は少し身近な「写真」のお話を交えて、彼岸の智慧について味わってみたいと思います。
◆カメラと記憶のつながり
最近ではスマートフォンが当たり前になり、誰もが簡単に写真を撮り、保存できる時代となりました。食事の写真、旅行の写真、友人や家族との写真。シャッターを押すことは、特別なことではなく、日常の一部となっています。
けれども私自身、ふと押入れを整理していた時に、古い「ペンタックスK100」というカメラが出てきたのです。その瞬間、懐かしい思い出が胸に広がりました。子どもが幼稚園の運動会で一生懸命走る姿を、このカメラで必死に追いかけながらシャッターを切ったこと。夢中でたくさん撮影したこと。まるで昨日のことのように蘇ってまいります。
さらに記憶をたどりますと、小学校の頃、父が二眼レフカメラを覗き込みながら真剣に撮影していた姿が浮かんできます。父の撮った白黒の写真をいま見返すと、父の目線で見た世界がそこに残っているようで、胸が熱くなるのです。
中学生の頃には、自分自身も写真を撮ることに夢中になりました。けれども当時は現像代に回すお小遣いが足りず、フィルムを入れないままシャッターを切り、ただ撮影する雰囲気だけを楽しんでいました。切り取った風景は、結局は心の中に保存するしかありませんでした。
思えば、あの「撮れなかった写真」こそ、私の心に深く刻まれて残っているようにも感じます。
◆デジタルの便利さと、形に残す尊さ
現代はデジタルの時代です。610万画素という、今では「おもちゃ」とも言われそうな画質のカメラでも、当時は大変ありがたく、パソコンで確認できることに感動していました。今ではもっと鮮明で美しい映像を、スマートフォン一つで残せる時代です。
しかし、便利になればなるほど、写真を「印刷して残す」ということが少なくなっています。データはあっという間に膨大になり、気がつけばフォルダに埋もれ、二度と見返さないままになってしまうことも少なくありません。
それに比べて、父が残してくれた一枚の白黒写真には、なんとも言えぬ温かみと重みがあります。父がその時、何を思い、どのようにシャッターを切ったのか。その心まで写し込まれているように感じます。
私はその写真を見るたびに、「ああ、父はこの時こうして私を見ていたのか」と、父のまなざしに触れることができるのです。写真は単なる記録ではなく、その人の「生きた証」「想いのかけら」が刻まれた尊いものだと実感いたします。
◆彼岸に思う ――心に刻むことの尊さ
お彼岸の時期にあたり、こうした写真の思い出は大切な示唆を与えてくれます。
それは、「形に残すことの大切さ」と「心に刻むことの大切さ」の両方です。
フィルムを入れずに撮った中学時代の私の写真は、一枚も残っていません。けれども心には鮮やかに残っています。それは「形に残らぬ尊さ」です。
一方で、父が残してくれた写真は、いま目の前にあり、触れることもできます。それは「形に残る尊さ」です。
私たちのご先祖もまた、同じように生きてくださいました。日々の労苦、喜び、家族への思い。そのすべてを「心に残すもの」として私たちに受け継ぎ、また時には「形に残るもの」として家や墓や仏壇を残してくださいました。私たちはそれを手がかりに、先祖の歩みに思いを寄せることができます。
◆智慧とは、心の目で写すこと
仏教でいう智慧とは、単なる知識ではありません。物事の本質を見抜く心のはたらきです。
カメラがレンズを通して光を受け止め、フィルムやデジタルセンサーに焼き付けるように、智慧の眼は人生の一瞬一瞬を見つめ、そこにある真実を心に刻みます。
父が残してくれた写真を通して「父のまなざし」に触れたように、私たちも智慧の眼を開くとき、ご先祖の思い、仏さまの慈悲に触れることができます。そしてそのまなざしは、時代を越えて私たちの生き方を導いてくれるのです。
◆お彼岸の実践
お彼岸には「六波羅蜜」という六つの修行を実践することが大切だと教えられています。布施(分かち合い)、持戒(いましめ)、忍辱(耐え忍ぶ)、精進(努力する)、禅定(心を静める)、そして智慧(真理を見抜く)。
その中で、写真の話に重ねれば、
布施は「撮った写真を分かち合う心」。
持戒は「写真に嘘を加えず、ありのままを残す心」。
忍辱は「撮れない時でも心に刻む忍耐」。
精進は「上手に撮れるように学ぶ姿勢」。
禅定は「カメラを構えるとき、心を静めて対象を見つめる心」。
智慧は「写真の向こうにある真実を感じ取る心」。
このように照らし合わせてみると、日常の何気ない営みの中にも、仏道の実践は息づいているのです。
◆結びに ――ご先祖の眼差しと共に
私たちはやがて、この命を仏さまにお返しする日を迎えます。けれども、その歩みの中で残してきた「心に刻まれた景色」や「形に残るもの」は、必ず後の世代へと伝わっていきます。
父が残してくれた白黒の写真を見ながら、私は今も父の眼差しを感じます。そのように、私たちもまた、子や孫や後世の人々に、眼差しを残すことができるのです。それは物として残すだけでなく、日々の生き方そのものを通して伝わっていきます。
秋のお彼岸を迎え、どうか皆さまも、ご先祖の眼差しに感謝しながら、今の自分の生き方を見つめ直していただきたいと思います。そして智慧の眼をもって、日々を大切に、後の人々に伝えられる生き方を重ねてまいりましょう。
合掌

